<地域衛生局>
そう書いたプラスチックボードが天井からつり下げられている真下
のゲートにICカードを通し、通路を開いてまた走る。
衛生局の本部である中央タワー十八階のフロアの一角で、レイナはすでに待っていた。
彼女は近づく二人に無言で目配せすると、いかにも丈夫そうな扉の横にあるセンサーにICカードをかざし、長とその側近を招き入れた。
「こちらです、ハクア様」
三人の背後でシューッという音と共に扉が閉まると、レイナは大量にあるコンピューターのうちの一つを示して言った。
「……どれ…??」
さすがに息を切らしながら、ハクアは画面を覗き込む。
「MTA50382……」
画面上のIC番号と、キーボードの横にあった押収したカードとを見比べる。
「確かに、IC番号はあってるね。略歴……も、レイナちゃんの言った通りだ。ねぇ、この草辺の顔写真は??」
「ありません……おかしな話ですよ。ですが、南地区の情報管理課は、“ない”の一点張りで」
「確かに、変だねぇ」
ハクアは、自分の輪郭を確かめるかのように、顎をさすった。
普通、死んだ者のIC番号は悪用されることを防ぐため、死亡して三時間以内にカードごと抹消される。けれど何かあった時のために、各
地区の情報管理課
は、死亡日からきっかり十年後までは、死亡時の顔写真と個人データを、コンピューターに残しておく。
十年経ったらそれさえも、記録から消え失せるのだ。そうしなければ、データの量が、莫大なものになる。
少なくとも、データとして存在が残っている間には顔写真つきの略歴が記録されているわけだから、略歴だけあって写真がないなんて、あ
り得ない。
しかも。
「レイナちゃん、確かこの男、ガス漏れ事故で死んだって言ったよね」
「はい」
「今日って二一二八年の六月二一日でしょ??ガス漏れ事故って、二一一八年の四月だったと思うけど??」
「はい、四月の十三日です」
ハクアは眉根を寄せた。
「……ってことは、二ヶ月くらい前に十年になっているから、データも残ってないはずじゃない??」
「そうなんです。草辺の死亡した日は、実際は四月の十五日、事故から二日後。それでも、とっくに十年は経っています」
「南地区の情報管理課のうすのろ職員が、二ヶ月間データを消し忘れていたとするよ。まあ、きっとあり得ないけど。それでも残る疑問っ
て……」
まるで口にすることをも躊躇するように、言葉を切る。 普通ならあり得ない。なのに、何故……
「なんで……十年前に死んだ男のICカードが、まだ生きているんだろう……」
これも、ただ処分をし忘れただけだというのか。十年間も??
ハクアの心を読んだように、レイナは目を細めた。
「あり得ません。ICカードの処分を忘れるなんて……そんなこと、あり得ない。でも…でももし、それも処分を忘れただけだとしましょ
う。それでも、まだ
奇妙なことがあります」
レイナがコツコツとハイヒールの音を立てながら、近くのデスクへ歩み寄った。
「MTA50382、草辺隆。失われていたデータは、顔写真だけだったんです。指紋、知能指数、声紋、DNAの遺伝子情報……つま
り、ゲノム。そういっ
た細かいデータは、欠けることなく残っていました。そして……」
レイナは、机上にあった複雑な文字やら数字やらが羅列している紙面に震える指を走らせ、一つ一つの項目を示す。
「そして、そのデータの“全て”が……今回死んだ男のものと、一致したんです」
「バカなっ……!!」
驚怖に瞠目し、直後、ハクアの唇から、狂ったようなヒステリックな笑いが漏れた。
「ハハッ、なにそれェッ!!じゃ、今んとこ有力なのは、あれだね。死人蘇り説。ねっ、ナガレ??」
この部屋に入ってから一度も口を開いていない従者を振り返ると、「そうですね」という答えと苦笑が返ってきた。
けれどその顔は、セメントのように白い。
ハクアは一瞬にして表情をこわばらせ、ナガレに駆け寄った。
「すごい顔色だ、休んだ方がいいよ」
「いえ、ですが、ハクア様……」
「ナガレ」
これまでになく厳しい声で名を呼び、黙らせる。
「今はまだ勤務時間だ。休め、これは僕からの命令だよ。いいね」
この時間に出された命令は、従兄弟ではなく、主従関係を成り立たせるものとして、逆らうことは許されない。
ナガレが視線を落として消えるような声で「はい」と言うと、ハクアは小さく頷いてレイナに声をかけた。
「悪いけど、簡易ベッドとかある??ちょっと休ませてほしいんだけど」
「はい、ハクア様。こちらへどうぞ」
案内された隣室には、デスクが一つと資料棚、ソファとベッドがあるだけだった。
「私の個人室ですからちょっと散らかってますけど……どうぞ、お使いください」
「ありがと」
ハクアは、今まで相当無理をしていたらしく、もう足元もおぼつかないナガレを支えて、ベッドに横たえた。
「ナガレ、傷は??まさか…開いたなんてこと、ないよネ??」
す、と脱力したように目を閉じ、ナガレは呟く。
「さあ…どうでしょう」
「開いたんだね」
嘘はつけないし、心配もさせたくない。だから微妙な答えになってしまったことを、ハクアは見抜いていた。
「女の子の前で悪いけど、服、開くよ」
無論ナガレは抗えなかったし、レイナも特に嫌がることなく、その場に留まった。
丁寧に巻きつけられた包帯には、血が滲み出ている。
「あーあ、シャツも汚れちゃったねェ」
「新しい包帯とガーゼ、消毒液、止血剤、適当なサイズの開襟シャツがあればよろしいですか??」
「悪いね、レイナちゃん」
「いいえ。少々お待ちください、三分で戻ります」
そう言って出てゆくレイナを見送り、ハクアは包帯をほどき始めた。
「…申し訳ありません……」
「だから今日は休んでなさいって、来る前に言ったでショ」
微かな咎める口調にナガレはしゅん、とし、さすがに可哀想になったのかハクアは話題を変えた。
「そういえば、謎の男のことだけどね」
「はい」
「指紋や知能指数、声紋、ゲノム…及び、DNA。全て一致したんだよね、草辺隆と」
「はい」
「それって、どういうことなんだろう…死んだはずの男が蘇るなんて、現代の技術では…」
「不可能です」
「…だよね」
「ですが……」
ナガレは言いづらそうに口を開く。
「DNAまで一致したんです。……同一人物以外の何者でもありません」
「…だよね」
頭の奥深くまで入り込んだ、あまりにも非現実的な事実を耳から振り落とそうとするように、首をかしげる。
ややしばらくその格好で片眉を上げていたハクアは、やがて諦めたように嘆息して汚れた包帯を丸め、それを壁にとりつけられたダスト
ホールに投げ入れた。
このダストホールはタワーの地下階へとつがなり、そこに集められたセントラル中のゴミは、一緒に焼却される。
地下世界の中の地下階、かなり深い場所にあるそれは、実はハクアが考案した役立つシステムのうちの一つだ。
「……謎は深まる一方…かァ」
「ですがハクア様、南地区の動きがおかしいことは、確かですよ」
「ウン、分かってる。ほらナガレ、もう喋らないで」
ナガレが、ちらっと自分の痛々しい傷を見て口をつぐむと同時に、レイナが戻ってきた。
「……物を持ってきたのはいいんですけど、医療スタッフも持ってきた方がよかったですかね??」
「んー……」
ハクアは悩んだ。大抵のことは知っているつもりだが、医学の方は全く分からない。おそらく、レイナも同じだろう。となるとやはり、専
門家を呼ぶべきか
……
「大丈夫です」
そう声を上げたのは、ナガレだった。
「消毒して、止血剤を投与すれば何とかなりますから」
「でもナガレ、消毒くらいならまだしも、おれっちもレイナちゃんも、注射器なんて使えないよ??」
「少しだけ手をお貸しいただけますか??自分でできると思います」
「ナガレ、医学系に詳しかったっけ……??」
「詳しいというほどでは。でも要は、薬が体内に入ればそれでいいんですよね」
「…………」
思わず絶句するハクアに、ナガレは小さく笑った。
「ほんの冗談です」
「こんな時に冗談って……」
「新しい緊張のほぐし方ですよ。……レイナさんすみません、消毒液を……」
「ちょっ、やめときなってナガレ!!」
消毒液を含ませたガーゼで傷とその周りを拭うナガレを止めようと、ハクアは必死だ。
「ねぇ、聞いてるのッ!?」
「ハクア様」
これ以上ないほど落ち着いた声音で、ナガレは言った。
「わたくしは、自分が本当に信じている人間以外、接触したくもありません。いつどこで誰が、殺めようとしているかも分かりませんか
ら、…人間は残酷な生
き物。そうでしょう??」
「……でもっ、もし……もし投与してる間に腕が痙攣して、針が折れて、皮膚下に沈んで、それで……」
「ハクア様」
分かっている、ナガレの言っていることが正しい。他人を信用してはいけない。
それでもハクアは心配だった。慣れないことをするほど危険なことはないのだから。
そんなハクアの胸中を察してか、ナガレは一瞬考え、口を開いた。
「申し訳ありませんがハクア様、右肩が動かないように、押さえていて下さいませんか」
「……本当に大丈夫なの……??」
「信じて下さい。ハクア様に何かあった時のためにと、少しだけ、こちらの分野を学んだことがありますから。ただ一つ問題なのは……」
止血剤の入った注射器を確かめるように左手で持ち、針の先端を見つめる。
「利き手が右なのに、右腕に打たなければならないので、左手を使うしかないことですね」
何度か試すように注射器を構え、小さく溜め息をつく。
「……レイナさん、針を刺した状態で固定しますから、ゆっくりピストンを押してもらえますか」
「えっ、私がっ!?」
「お願いします」
ナガレはレイナの返事を待たず、ハクアが右肩を押さえているのを確認して、針の先端をそっと皮膚にあてがい、静かにまっすぐ沈ませ
た。
「……レイナさん」
均衡を保つのが難しいらしく、ナガレの左手は小さく震えている。
それと同じくらい、レイナの唇も震えていた。
「レイナさん…」
「………」
直立不動で泣きそうな顔をしているレイナに、ナガレは微笑みかけた。
「大丈夫ですよ、ゆっくり、押すだけですから」
レイナはキュッと唇を噛み、片手でナガレの手を支えながら、もう一方の手でピストンを押した。
「……ありがとうございます」
ね、大丈夫でしょ、と言うように針を抜き、息をついたナガレの首に、いきなり巻きついたものがあった。
「うわぁ~っ、ナガレぇ、怖かったよぉ~!!ナガレのバカぁ~!!」
言うまでもなく、それはハクアの腕だ。
「失敗したらどうしようかと思ったぁ~!!怖かったぁ~っ!!」
ふざけているようで、本気でボロボロ泣いている長に、レイナは目を見開いた。
「……普通この場合、怖くて泣くのは…ナガレさんでは……??」
「いいんですよ、これで」
ほんの一時従兄弟に戻ってハクアの頭をよしよしと撫でながら、ナガレは口元に笑みを浮かべる。
「なぜか自分の事では泣けないわたくしの代わりに、彼が泣いてくれる。それで、いいんです」
レイナは、怪我をした父親と、その無事を知って泣きつく子供のように見える二人を、少しだけ、羨ましく思ったのだった。
「DNAか……」
ハクアは苦々しく呟いた。隣でナガレも、疲弊したように目を閉じ
ている。
二人は、レイナの運転する車の中にいた。
「そういえばさぁ、ナガレぇ」
「はい」
「この前の二人組の刺客が、“セントラルを乗っ取れば自由にしてもらえる”って言ってたよねぇ??」
「……はい、あの壊れた人間ですね」
「ウン。奴らって、今回の事と関係あるのかなぁ??」
「……どうでしょう」
シートに身をうずめ、ナガレは痛みをこらえるような、鋭い息を漏らす。
「ハクア様がお考えになっているのは……二度の刺客の黒幕が同じなのではないか、ということですか」
「うん……」
「あり得なくはないですね…」
「失敗したなァ。あいつら、ホントに捨てるんじゃなかったぁ」
ナガレはハクアに命じられた通り、最初の刺客の男たちをダンボールに詰め、空気穴を開けて路地へ捨ててきた。
「まさか、こんなことが起るなんて、予測してなかったもんねェ……」
「……連れ戻してきます」
「……えっ!?」
突拍子もないナガレの発言に、ハクアの反応は遅れる。
「連れ戻す!?今、そう言った!?」
「はい、あの男たちを、捜してきます。今なら、何か手がかりが得られるかもしれません」
「え、いいよ、そんなことしなくて!!やめときなよ!!」
ハクアは慌ててシートから身を起こし、首をぶんぶんと振った。
「どうせ、もう死んでるよ、あいつら!!」
「そんなこと、分かりません」
言いながらナガレは、ここで止めて、とレイナに合図する。
事情をよく理解できぬまま、とりあえずレイナは車を止めた。
「あいつらを捨てた路地が、この辺りなんです。ハクア様は、お先にお帰り下さい」
「無茶だってナガレっ!!自分の体のことを……っ」
車を降りようとするナガレの、翻るスーツをつかみそこねる。バタン、と音を立てて、扉が閉まった。
“お許しください”
ガラス越しに見るナガレの唇が、そう動いた。
「え、や、ちょっ……!!」
呆然としたハクアが我に返ったときにはすでに、走り去るナガレの背中が、角を曲がって見えなくなっていた。
「………」
「………」
「……あの…」
車内の沈黙を破ったのは、レイナだった。
「とりあえず…ナガレさんは、ハクア様のためになるかもしれないことなら、どんなに可能性の低いことでも、やらなきゃ気がすまないん
だと思います…って
ことで、帰りましょう??ここは、ナガレさんにまかせて」
ナガレが消えた角をしばらく見つめ、名残惜しそうに、ハクアは小さく頷いた。
去り際、レイナはハクアの家の前に車を止め、元気づけるように言った。
「大丈夫ですよ、ハクア様。ナガレさんなら、小一時間で、きっと目的の者を連れて帰ってきますよ」
レイナには、未来を見透かしたようなことを言う、不思議なところがある。だからハクアは信じてみようと、決意を新たに、待っていた。
それでもやはり、ナガレが本当に小一時間で戻ってきた時には、開いた口が塞がらなかった。
「ただいま帰りました、ハクア様」
ナガレは少し勝ち誇ったような笑みを浮かべ、一人の男を突き出した。
それはあのとき、頭がおかしいのかとハクアさえも思った、あの男だった。
「ナガレッ、怪我はッ!?」
「いいえ、大丈夫です」
いくら頭が飛んでいるとはいえ、のこのこと素直にやって来たとも思えない。あまつさえ、もともと体力の落ちているナガレが激しい抵抗
にあったのではな
いかと、不安だった。
「どうやって連れてきたの…ッ!?」
ハクアの問いが愚問だというように、ナガレは妖艶な笑みを浮かべた。
「犬は、ちょっと挑発をしてから走って逃げれば、追いかけてくるものですよ」
「……は??」
「路地に横たわっているこいつを、近くにあった排水用のパイプでつつきながら、しゃくとり虫のテーマを歌って逃げたら、ついて来まし
た」
図らずとも、“あ”の形に口が開く。
「……シャクトリムシノテーマ……??」
「はい」
作戦が上手くいってよほど嬉しかったのか、ナガレは主人に自分の勲功(いさお)を褒めてもらった子犬のような顔をしている。
「……それって…どんな歌なの…??」
「……さあ……なにしろ、即興でつくったものでしたから……」
困ったように言われても、こっちだって困る。
「ただ……しゃくとり虫みたいに這いつくばって生きてろとか、それがお似合いだとか、しゃくとり虫より生きる価値がないんじゃないか
とかなんとか……そ
んなようなことを歌った気がします」
最低だ。何が最低かって、シャクトリムシに失礼だ。
「……まあいいや…もう一人の男は??」
尋ねると、やっとナガレの表情が事務的なそれに戻る。
「辺りにはおりませんでした。逃げたか……喰われたか」
うえっ、と、嘔吐するふりをして立ち上がったハクアは、床にうずくまっている男をつま先でつついた。
「ちょっとぉ、あんた、生きてんのォ??」
「生きていますし、意識もありますが、ここ数分で一言も喋らなくなりました」
「喋らなく、なった??」
ナガレの報告に、思わずにやっと笑みが広がる。
「ってことは、喋ることはできるんだね??」
「はい、おそらくは」
「じゃあ、喋らせよう」
いとも簡単に言い切ったのだから、セントラルの長というだけあって、ただ者ではない。
パンパンッ!!
どこからともなく拳銃を取り出し、天井に向かって発砲する。
乾いた銃声に恐れおののき、男は声にならない叫びを上げて床を這った。
「動くなよ??」
男のこめかみに銃口を突きつけて脅す。
「これから言うことに答えてネ??首を縦か横に振るだけでいいからァ」
コクコクと小刻みに頷いた男の肩をかすめるように、ハクアは再度、薬莢を飛ばす。
パンパンッ!!
「動くなって言ったでショ??」
男の口元が、ひくっと痙攣する。
「で、でも……首を縦か横にって……」
「おーおー、元気に喋れんじゃん」
男の胸ぐらをつかみ、銃口をあごの下に移す。
「嘘ついたら、果物ナイフを九百九十九本飲ませるからネ??針千本よりマシでしょ」
「そ……んな…」
「それで、あんたの後ろについてんの、誰なの??」
「へっ……!?」
男は、驚いたように背後を振り返る。その頭を、ハクアは銃身で殴った。
「バカ、背後霊じゃなくて」
三十八口径の銃口を、ごりごりと男の喉に押し付ける。男はヒッと息を呑んで、情けない顔をした。
「この間あんた、セントラル乗っ取ったら自由だって言ってたよネェ??つまり今は、誰かに拘束されてるってことでしょ??誰にしばら
れてンのって聞いて
んだよ??」
「あ……あっしは……」
「……」
「……」
「…またそこで閉口すんのォ??おれっち、気は長くないんだぁ。あっしでも我でもあたいでもいいから、さっさと言ってくんなぁい??」
「……言えねえ…っさぁ…」
「言えないって??ハッ、寝言は寝てから言いなサイ。いっそのこと、永眠しちゃう??」
男の顔色が、赤から青へ、青から灰色へ、灰色から白へと変化するのを、内心かなり楽しんで観察し、焦らせるように言う。
「嫌なら、言うことだネ」
「……」
「言えないの??じゃあ、あんたの電話……じゃなかった、IC番号は??」
「…TTO201931…」
「バカにしないでくれる??TTOって、どこですカ??“トイレ、トイレ、おもらし“の略ですカ??あ、しかも最悪じゃん。数字も入
れたら、”トイレト
イレおもらし、ニオイ臭い“ってなるじゃん」
ぷふっと、吹き出すような微かな笑い声は、ハクアの背後から上がる。
「ほらぁ、ナガレにも笑われて、あんた災難だねェ。ホントのIC番号を言ってヨ」
「ほ、本当だっ!!あっしの番号は、TTO2019…」
「ナガレ」
ハクアはいきなり、振り向きもせず側近の名を呼んだ。
「このヒト、かなりトイレ行きたいみたい。おまるでも持ってきてあげて」
本気なのかふざけているのか分からないような命令に、側近は真顔で問う。
「はい。アヒルさんとクマさんがありますが、どちらがよろしいですか」
「んー、おれっち個人としては、クマさんかな」
「かしこまりました。では、クマさんの方を……」
「いらねって…」
口を挟んだ男は、ナガレにぎろりと睨まれながらも必死だ。
「本当に、IC番号は……っ」
「ハイハイ、もういーや。じゃ、どこの地区の生まれなの??」
「……どこでも…ありま…セン」
男の答えに、ハクアは冷笑した。
「どこでもないって??CCUで生まれたとか??おれっちでもまだまともな嘘つけるヨ」
「………」
「…南地区でしょォ」
ハッと視線をそらす男のその動作は、明らかに不自然だ。嘘をつけない、すぐ顔や態度に出てしまう。
この世界で干渉されやすい、味方にしたくない人種。
「……やっぱり、そうだったんだァ」
呟いたハクアは、拳銃を内ポケットに滑り込ませた。もう、この男は喋らない。もうこいつは、使えないだろう。
「ナガレ、もういいよ。こっちの役に立たないもん。あっちの役にも立たないようにしちゃって」
空気を震わせるこの言葉が死刑執行のサインだということは、愚かな男にも理解できたようだ。額に汗を浮かべ、ぎょろりと目を動かす。
まるで、ないとわかっている逃げ道を探すように。
恐怖一色に顔を染めて。
けれどナガレはそんな男の表情を直視しても、情けをかけようとすることなどない。あくまでも、ハクアがナガレの主人であり、彼の命令
は絶対なのだ。
男を哀れとも思わなかった。
「ちょっ……待っ…」
自分の眉間をぴたりと狙うナガレの銃口に慌て、男は口走った。
「待ってくれ、命だけは……」
「うるさい、耳障りだよ」
ハクアのくつがえらぬ意思が、ナガレの美しく、また残酷な指を動かした。
『パァン……』
長く尾を引く容赦ない音を聞いたとき、男は既に、全てを失っていた。
「……あー、うるさかった。…ちょっと汚れちゃったネ」
「すぐに片付けます。しばしお待ちを」
「ん」
たったそれだけだった。一人の男を殺しただけで動じていられる時代じゃない。誰も犠牲にすることなく、みんなで生きる。そんな、甘っ
たるい世界ではな
いのだ。
「ナガレ」
「はい」
死体を運び出そうとしていたナガレは、主人の声に動きを止めた。
「ナガレって、機械得意だっけ??」
「ある程度は操作できますが」
「じゃあさ」
ふと、ハクアの瞳が、剣呑な光を帯びる。
「…南地区の情報管理課が使ってるコンピューターのCPUを、こっちから操作しちゃったり……できる??」
CPU。
Central Processing Unit。中央処理装置。
簡単に言えば、コンピューターの最も重要な部分。
メインメモリ、俗に言う主記憶装置に記憶されているプログラム、データを少しずつ読み取り、手順に従って処理を実行、制御する中枢電
子回路。
それを乗っ取るなんて、普通は考えない。きっと不可能だ。
そして、してはいけないことだ。
でも。
ハクアの命がかかっている。この男も含め、刺客たちの正体はなんなのか。TTOとは。黒幕は本当に、南地区の長なのか。
できるか、できないかじゃない。
やるか、やらないかだ。
意を決し、ナガレは大きく息を吸う。
「……結果がどうなるのかは分かりませんが……試してみましょう」
+つづく+