第参章

Chapter:




バンッ!!

腹の底に重く響く銃声が鳴り、手に持つその凶器の口から、細く
、煙がなびく。

残響も消え、通路に響くのは、己の荒い息。それだけ。

まだ安心できる状況ではないのに、足元の粉々になったカードの残骸を見ただけで、もとから震えていた両膝が、ついにかくりと、地に落 ちた。

『カシャン』

ついた右手に持っていたピストルが、硬い通路の床に当たる。体がもう言うことをきかなくて、そのままごろんと横になる。

完全なる、無防備な姿勢だ。

おれは猫か。

自分に突っ込んで、無性に笑いたくなった。

何度か呼吸を繰り返すうちに、緊張によって押しとどめられていた痛覚が、目を覚まし始める。

撃ち抜かれた左足の引きちぎられるような激痛に、息をつまらせた

よくこれで立っていられたものだ。

でもこれで終わりじゃない。ここでくたばっても、意味がない。

いかなければ。もっと、ずっと遠くへ。

……でも、歩けないだろう??

自分自身に言ってみる。

……ここで全てをやめてしまえばいいじゃないか。

自らの意志を貫くことも、生きることさえも。

(それも、悪くないな)

聞こえる。心の声が。

(手には、そのための道具だってある。苦しくなんかないさ、一瞬だもの)

右手のピストルを、意識的に揺らしてみる。

(運がいいじゃないか。出血による苦しみも、傷口に入る菌による苦しみもなく。たった一   

瞬で、解放されることができるんだ)

そうだ、そうだよな。

緩慢に右手を持ち上げ、銃口をこめかみにあてて目を閉じる。

ほう、と深く息を吐き、引き金にかかった人差し指に力を込め……

カチッ

銃声は、響かなかった。

……弾切れ…か。

予備は持っていない。 バカだ。とんだ笑い者じゃないか。

腹の底からこみ上げてきた笑いが、くくっと口から漏れる。 ああ、生きるしかないんだ。

誰かの手にかかって死ぬなんて、まっぴらだ。だから、生きるしかない。

前に進むしかない。

地を這ってでも。

俯せになり、文字通り通路の床を這う。先程までの迷いは、もうなかった。

もしかしたら本当は、もう弾がないことを分かっていたのかもしれない。だから、ためらうことなく引き金を引いたのだ。

全うしていない命を自ら絶つのは卑怯だ。

感じなければならない。 

憎悪を、苦痛を、悲愴を。この悪夢のような現実、人間の愚かさを

そう、決めた。

あいつには、屈しないと。

決めたではないか。



己の決意に応えるように、つ…と上がった視線。その先に、通路の終わりが見えた。


セントラル唯一の食料市場は、喧噪に包まれていた。

「この菜っ葉は一束で毛布一枚と交換だ!!」

「おいババア、そりゃあぼったくりだぜ。萎びた色気の悪い食い物
と毛布なら、毛布の方が使えるっての」

「そんじゃ、買わなくて結構だよ。毛布を食って生き延びることだね」

「あ??狂ってんじゃねえの。大体、食料を店先に並べておくあんたの気が知れないね」

野菜を売っていた女と言い争っていた若い男は、萎びた菜っ葉をごっそりつかんで走り出した。

「ちょっと待ちな!!おい、誰かそいつを止めてくれ!!」

女の言葉に従う者はない。誰もが、自分のことで精一杯なのだ。

「あの糞野郎、ぶっ殺してやる!!」

荒い物言いに、一部始終を眺めていた寺本茘枝(れいし)は顔を顰めた。

「おばさん、その言葉遣いは、ちょっと…」

「誰がおばさんだって、え??…あんた、見ない顔だね。どうしたんだい、その眼鏡」

「いいでしょう、この眼鏡」

鼻先までずり落ちた四角い黒斑眼鏡をちょっと上げ、微笑んで見せる。

「最悪だね、趣味悪いよ。ちょっと、そんなところに立たんでくれよ。商売の邪魔だ。どういう育てられ方をしたんだか。まったく、親の 顔が見てみたいね」

「残念、それは無理かな。両親は数年前に、病気で亡くなったから

「へぇ」

野菜屋の女は、茘枝に興味を持ったようだ。

身を乗り出して、尋ねてくる。

「あんた今、いくつだい??」

「十六です」

「十六!?にしちゃあ、頼りない体つきじゃないか」

「今時、珍しくないでしょ」

手足は細いし、顎は尖っているし、黒髪はぼさぼさで鳥の巣そのもの。小さな顔の大きな目と黒斑眼鏡が、妙に目立っている。

そんな茘枝でも、路地裏で飢えに苦しんでいる子供たちよりは恵まれた体型だと言えるのだ。

「ふうん、あんたそれなりに生きてるってことは、どっかでまともに働いてんだね」

「セントラルタワーの情報管理課で。悪くないでしょ」

「ああ、おおいに結構だよ」

女の口元が、不自然に引きつった。

なんだろう、と思う間もなく、茘枝はいきなり後ろから羽交い締めにされる。

苦労して僅かに首を回すと、明らかに茘枝よりも屈強な男の上半身が目に入った。

「なにするんですか!!」

「馬鹿だねぇ、あんた。もしかして、この辺りに滅多に来ないんじゃないの。タワーで働いてる奴ほど、カモになりやすい人間はいないっ てのに」

「カモ!?僕のどこが人間に見えないんだ!!」

場違いなことを言っている自覚がないまま、ひたすらわめきながらもがく。

「離して!!さすがにこれはないと思うよ!!だってほら、僕まだ十六だから…」

「だからなんだい」

拘束されたまま、古びたズボンのポケットを探られる。

幸い、金目の持ち合わせは少ない。

それでも、屈辱に視界が歪んだ。

「ふん、タワーって言っても、これくらいの金しか持ってないのかい。いっそのこと、あんたを売ろうかね。…腹いせに、成仏させること もできるけど」

「え…」

背後から首に回っている腕が、軽く締められる。

「はうっ……」

「あんまり大きい声でまともな職の話をしない方がいいんだよ、こういう物騒なところではさ」

女がにやりと笑うと、黄色い歯がちらりと覗いた。

「おばさんっ、そういうことはもっと早く言ってくれないと…!!

「不幸なガキだねぇ、まったく。他人を頼っちゃいけないってことを教えてくれる前に、親が逝っちまったのかい」

茘枝は一度抵抗をやめて、全身の力を抜いた。

カモが逃げることを諦めたと思ったのか、背後からの拘束が僅かに緩む。

「隙ありっ!!」

男を振りほどき、一目散に駆け出す。

とにかくこの市場から出よう。

仕事からの帰り、いつもは近づきもしないこの市場になぜか興味を引かれ、寄道をしたのが間違いだった。

振り返らずに、ひたすら走る。

『ドンッ』

「おいガキ、どこみてんだ!!」

人にぶつかって罵声を浴びせられるが、謝っている暇はない。

やっとの思いで市場を抜けてもまだ安心できなくて、息が切れているのに走り続ける。

一人で暮らしているアパートからは、かなり離れてしまっていた。

「どうしよう…」

呟いた…刹那。

右側から、誰かが急に飛び出してきた。

「うわっ!!」

避けきれたと思ったが、右肩が相手の身体と接触する。

ドサッ。

背後でこんな物音がすれば、無視して逃げ続けるわけにもいかない

慌てて止まり、振り返った。

すらっとした体躯の青年が、左足を押さえてうずくまっている。

「えっ、ちょっと、大丈夫…っ」

駆け寄ると、青年が顔を上げた。

年齢は茘枝よりいくつか上だろう。

猛禽類を思わせる、切れ長の目。色を失った頬と唇。ぼさぼさと跳ねた茶髪。

恐ろしいとも、美しいとも感じさせる、野性的な容姿だった。

「…近づくな」

掠れた声だ。

青年が、焦ったように辺りに視線を走らせる。

「わっ、血が出てるよ!!もしかして僕のせいでっ…」

「黙れ」

ふらりと立ち上がった青年の背後に、ふと茘枝は目を止めた。

しっかりと閉ざされた、頑丈な扉がある。

「え…CCUから来たのッ!?」

「言うな、忘れろ。おれに会ったことを」

「え、でも怪我は…」

茘枝の言葉が途切れた。

『ピー』

突然、辺りに警戒音が響いた。

チッと軽い舌打ちを残し、青年は走り出そうとする。

しかし、彼の前方から、大勢の武装した男たちが駆けてくるのが見えた。

あっという間に茘枝と青年は取り囲まれ、身動きが取れなくなってしまう。

男たちのうちの一人が、無線でどこかに連絡をする。

「侵入者とそれを手助けしたと思われる少年を発見。直ちに確保します」





「僕はなにもしてませんってば!!」

叫んだが、無駄だった。

茘枝は青年と共にタワーに連れてこられ、手を後ろで縛られ、両足首もぐるぐる巻きにされて、小さな部屋に閉じ込められてしまった。

「もう!!」

辛うじて少々の自由がきく膝で金属質の扉を蹴りつけてみたが、膝の皿が痛んだだけだ。

「なんで僕が保安員に捕まらなきゃいけないのさ」

「おれと一緒にいたからだよ」

青年は部屋の隅の壁にもたれかかって座り、怪我を負っている足を軽く動かして顔を歪めた。

「ねぇ、きみは追われてたの??」

「あんたに話す筋合いはない。おれが巻き込んだならともかく、あんたが勝手に巻き込まれてきたんだから」

「そんなぁ…」

「だいたい、なんでそんなにお人好しなんだ。この世の中にあんたみたいな人がいるなんて、思ってもみなかった」

「お人好し??どこが??」

呆れたように深い溜め息をついた青年の顔は、青白い。

「たかがぶつかっただけで心配して近づいてくるところが。赤の他人に警戒心を持ってないなんて。もしおれが怪我したふりをしていただ けで、近づいてきた
瞬間に殺そうと思ってたら、あんたどうするんだよ」

「大丈夫、狙われるほどの物はもってないから」

言いながら、市場で危うく殺されかけたことを思い出す。

「現にあんた、おれに関わってろくなことになってないだろう」

「……寺本茘枝っていうんだ、僕の名前」

青年が、ゆっくりと顔を上げる。

目を細め、気を疑うような表情をしている。

「あんたって呼ばれるの、好きじゃない。茘枝って、呼んで」



「もしおれが怪我をしたふりをしていただけで、近づいてきた瞬間に殺そうと思ってたら、あんたどうするんだよ」

左足が、痛い。

けれどこの少年の前で、自分の弱っている姿を見られたくなかった

だから下を向き、相手の気が会話に向くように、わざと尋ねる。

それなのに。

「大丈夫、狙われるほどの物はもってないから」

馬鹿げた答えしか返ってこない。

それとも、もしかして。

セントラルには、地下世界ではあり得ないはずの平和が、あるのか

……否、そんな話は、聞いたことがない。

とすると、こいつはよほどの馬鹿なのか。

そもそも今、己の置かれている状況を把握しているのだろうか。

「現にあんた、おれに関わってろくなことになっていないだろう」

自覚、しているのか。

言葉には出さずに、続けて問いかけてみる。

少年が答えるまでには、少々の間があった。

そして。

「……寺本茘枝っていうんだ、僕の名前」

唐突な告白に、一瞬思考回路が停止する。

なにか、裏があるのか。

ゆっくりと、“寺本茘枝”に視線を向ける。

なぜ、ここで名を明かす??

まるでその疑問が届いたかのように、少年は微笑んで言った。

「あんたって呼ばれるの、好きじゃない。茘枝って、呼んで」 

こんなことって、あるのか。

無防備に自分をさらけ出すなんて、こんなことが。

気がつくと、どこか身体の内側から、笑いがこみ上げていた。

茘枝から視線を外したとたん、くっくっと、堪えきれなかった笑声が漏れる。

「えっ、なんで笑うの!?」

茘枝の慌てふためいたような声が、耳に届く。

尋ねられても、分からない。

ただ、無性に可笑しかった。

茘枝がまた何かを言おうと、息を吸う気配がある。

「ねぇ、きみの名前は??」

「あん…失礼、茘枝、普通ここで、名乗るか??」

やっと笑いをおさえる。

「え、名乗らないの??だって自己紹介くらいしかすることないじゃない。タワーから逃げるなんて不可能だし。脱出方法なんて、考える だけ無駄でしょ」

「それでも名乗らないんだよ、普通。あのな、おれとあんたは、家族か??」

「あんたじゃなくて、茘枝。ううん、家族じゃないよ」

「じゃあ、親戚か??」

「違うけど」

「友達か??」

「……どうだろう」

「違うんだ、友達じゃない。そこで悩むな。おれと、あん…茘枝は、なんの関わりもない…いや、なかった、赤の他人だ。今は、強いて言 うなら同じように危
機に直面している人間同士ってとこか。少なくとも、知り合い、まではいかないだろうな。おれは茘枝がどんな人生歩んで来たのか知らな いし、別に知りたい
とも思わないから。そんな関係で名乗るなんて、無防備すぎる」

「ふうん…じゃあ、名乗る気はないんだ」

そういった茘枝はしばらく黙り込み、急に目を見開いた。

「そういえばきみ、南地区に繋がるCCUから飛び出して来たよね!!ってことは、南地区に住んでたんだ??」

迂闊だった。

都合が悪いことばかりを記憶されている。

「忘れろって、言ったよな、おれ」

低い声ですごんでみたが、茘枝には通用しない。

「南地区かぁ、行ってみたいなぁ!!セントラルから出てみたいんだよね、一回だけでいいからさ。それに…」

「黙れ」

遮ったのは、うるさく感じたからというだけではない。

足音が、近づいて来ていた。

ようやく茘枝も気付いたのか、息をひそめる。

……待つこと数秒。

シューッという音を立てて、扉が滑るように開いた。

「ハァイ!!」

やかましい男が入って来た。

とにかく、やかましい。そう思わせる男だ。

けれど茘枝が小さく息を呑んだからには、それなりの人物なのだろう。

そのすぐ後ろには、すらっとした体躯の、美貌の男がついている。男は、入ってくるなり壁についていた小さなボタンを押して扉を閉める と、最初の男の斜
め後ろに立つ。

身のこなしが、戦い慣れをした、無駄のないものだった。

こいつは、厄介かもしれない。

「あれ、こっちは何か、見たことあるねェ。おれっちがたまにタワーに来たとき、どっかで会ったと思うけど、ナガレ??」

茘枝の前に立った最初の男が、背後の美男に尋ねる。

「はい、ハクア様。彼はタワーの情報管理課に勤務しております」

「あ、なるほどぉ。ICは??」

「QBJ91028、寺本茘枝という名です」

「ふーん」

ハクアという男の長い指が、スッと、茘枝の顔をなぞる。

茘枝は痙攣するように、ぴくんっと震えた。

ハクア。どこかで聞いた名だ。ゆっくりと、記憶をたぐり寄せる。

ああ、あいつが言っていたんだ。今忘れていたことが訝しいほど、何度も。

セントラルの長、ハクアを殺れ、と。

長…か。

「茘枝、クン??」

「はっ、はいっ」

茘枝の裏返った声。

「キミ、おれっちの地区の住民なのに、おれっちを裏切って、他人が罪を犯すのを手伝った。そうだネ??」

「あ…の……いえ、手伝ったわけじゃ……」

「キミは侵入者が目の前にいたにも関わらず、通報しなかった。これって立派な裏切りだヨ。言い訳なんて、おれっちが聞きたいと思 う??おれっちがキミに
求めているのはね……」

ハクアの顔に、妖美な笑みが浮かんだ。

「真実、それだけなんだよ」

「は……はい…」

お偉いさんの前で萎縮してペコペコ従って、馬鹿みたいだ。

違う、本当に馬鹿なんだった。

「キミは、おれっちを裏切った。そうだネ??」

「……は…い……」

「うん、覚悟しといてね」

セントラルの長はいきなり手を上げ、茘枝の頬を思い切り張った。

パンッ!!

「……っ!!」

涙目で歯を食いしばった茘枝の胸ぐらを、殴ったその手がつかむ。

「これだけで済むと思うなよ」

ガンッ!!

茘枝の背が壁に当たる音。

思わず、顔を伏せた。

僅かに空気が動き、長が移動してくる気配がある。

「それで、キミ、顔上げて」

顎をつかんで、持ち上げられる。

「へぇ、野性的だけど、綺麗な顔。見てるとムカつく」

正面から見たセントラルの長は、この部屋に入ってきたテンションから想像できる通りの童顔だった。

子犬のような目。喋る度にできるえくぼ。なにより小顔だ。長とは思えぬほどラフな服装で、染めたような赤茶色の短髪も、適当にく しゃっといじっただけ。

けれど放出されている気迫が、見た目よりも数百倍恐ろしい人間だということを証明していた。

「美人サンは、美人サン同士でやってもらおうかな。ナガレ、替わって」

長が退き、目の前に美貌男が立った。

「……ハクア様の言う通りだ、綺麗な顔だね、君」

「あんたもな」

美貌男、ナガレは、キュッと口の端を上げ、「ありがとう」と言った。

「それで……まず君、名前は??」

「名無しっていう名前」

は??と、ナガレの目が細くなる。

推測だが、長もこのナガレという男も、自分とそう年は変わらないはずだ。

通った鼻梁に形の良い唇。光に当たると時々蒼く見える黒髪は長と同じく短髪だが、こちらは癖がなく、上品に整えられている。

一見華奢な長い手足も、並み以上の筋肉を備えているのだろう。均整のとれた体つきだった。

緊迫した空気に、茘枝が身じろぎする。

「正直に名乗ったら??抵抗できる立場じゃないのは、お前が一番よく分かっているだろう」

図星だった。

茘枝には、名を教える筋合いはなかった。

しかし、今名乗ることを求めているのは、自らが犯した罪に、大いに関係のある者たちだ。

しかも、事の主導権は相手にある。

こちらの命さえも、相手の手中だ。

捕らえられたら、堂々と胸を張って、相手に従え。

足掻く姿ほど情けないものはない。

あいつも言っていた。あいつが言った言葉の中で、現実的に考えて唯一、正しいと思える言葉だった。  

重たい口を開く。

「……ユン」

「ユン…だけ??」

「ユン・リン」

「可愛い名前。パンダみたいだ」

「それはどうも。嬉しくないけどな」

せめてもの抵抗に、軽くあしらう。

「…本題だけど、なんで持ってないんだ、ICカード」

持ってないのっ!?と言いかけた茘枝が、長に口をふさがれる。

そう、これが第一の罪だった。

身元の分かるICカードを持たず、他の地区へ侵入したこと。  

「……どうして持ってなかったんだ」

「…喰ったから。バリバリと」

「つまらない冗談」

「だって、腹減ってたし」

「真面目に答えろ」

…と、ふいにナガレの手に拳銃が現れ、ユンの眉間をぴたりと狙った。

「……物騒だな。何のつもりだ」

「手、器用なんだ??それ以上動くなよ」

ユンは、チッと舌を鳴らした。

後ろで縛られている手の縄をはずそうとしていたのだ。

この動作に気付く者は、滅多にいない。以前にも囚われの身になったことがあるが、その時もこの方法で脱出した。

やはり、このナガレという奴は、ただ者じゃない。

「それで??ICカードは??」

銃を下ろさぬまま、ナガレが声を響かせる。

「この地区、結構先進地域だから、カード持ってない人間が入ってきたら、すぐに分かる。知らなかった??」

「……いや、知ってたけど、行く場所を間違えた。方向音痴なもんで。おれは、迷子の子猫ちゃんってわけだ」

「誰が子猫だ。ふざけるなよ??…なんのために来たんだ」

ユンは視線を落とす。目で、悟られぬように。

しばらく黙っていると、小さな溜め息が聞こえた。

「…南地区へのCCUの前にいたんだっけ」

「……だから??」

「君を、殺さなければならないかもしれない」

「は??」

思わず顔を上げると、額に銃口の冷たさを感じる。

「もしも、お前が情報を持っていなければ、だけど」

「情報??何の」

「……南地区情報管理課の」

カチン。

硬質な音を立てて、目の前の撃鉄が下がる。

答えによっては、命がここまでだということの示唆だ。

ユンはゆっくり息を吐いた。

「ユン・リン。死が、恐いか」

「別に」

偽りではない。常に、覚悟はしていた。だから、恐れてはいない。

ただ、無駄に死のうとも思わなかった。

「……南地区情報管理課の、何が知りたい」

「…情報を管理しているコンピューターの、ユーザー、パスワード

「ははん、覗き見たいわけか。何のために」

「話の主導権は、おれだ。おれがお前に聞いている」

ユンは口をつぐみ、ゆっくりと息を吐いた。

「一つだけ聞かせろ。あんたたちにそれを教えることで不幸になるのは、誰だ」

「……さあ、やってみないと分からない。おれたちの、敵だ」

「……その敵が、南地区の者である可能性は高いのか」

「十分に」

明確な答えだった。

数秒の沈黙。

「………協力しよう」

ナガレの瞳にふと剣呑な光が宿るのを見て、ユンは目を細める。

「何だよ、信用しないわけか」

「もちろん。結局お前が何者なのか、分からない」

「……ICカードは、撃った」

手首を何度かひねり、縄の結び目に指を引っかける。

何度か結び目を指で弾くと、拘束がほどけた。

意外な答えだったのか、ナガレは撃ってこない。それをいいことに、ユンは堂々と、縄の跡がついた手首をさする。

「南と中央のCCUで。追跡されないように。そのCCUを通るために南の長から自由通過パスポートを奪ったんで、追われて……足を、 撃たれた」

口が言葉を紡ぎ、あの時の憤りが蘇る。

「別に、中央に逃げなきゃいけなかった理由はない。でも、まあ向こうの長に反抗しちゃったんで、逃げるしかなかった。死にものぐるい でCCUを抜けた瞬
間、そいつと」

言いながら、顎で茘枝を示す。

「衝突した。怪我はもとからしていたのに、このお人好しは自分がおれに怪我をさせたと勘違いして、近づいてきた。そうこうしているう ちに、保安員がやっ
てきて捕まった。以上終了。だから別に、このガキはおれの侵入を手伝ったわけじゃない。何も知らず、それでもおれを助けようとしただ け。弁護してるわけ
じゃないけどな」

「なるほど」

装填してしまった銃弾を天井に向けて撃ち、ナガレは銃をしまって振り返った。

「……だそうです、ハクア様」

「…ふうん。まとめると、南地区の長を裏切って追われ、カードを持っていると容易に追跡されてしまうから、破壊した、と」

「そのようです」

「じゃあ……」

ハクアが進み出てくる。

「なんで、長を裏切ったわけ」

ユンは答えることを拒むつもりはなかった。

ここまで話してしまったら、隠している意味もないだろうという、半ば諦めからだ。

「人を殺せと、言われたから」

「人を??」

「おれは幼い頃から、自分で言うのもなんだけど、戦いの筋が良かった。だから特殊訓練を受け、将来は長をお守りしろと、そう言われ て、十二の時から南の
長に仕えるようになった。おれは、守るべき人を守るためであって、殺すために訓練に耐えたわけじゃない。だから長に殺しを頼まれ、嫌 になって裏切った」

ユンの話を聞き、ハクアはにやりと笑う。

「そういうあっさりした理由、おれっち好きだよ」

「でも不思議なもんだな。殺せと命じられたら、そいつを殺したくなる」

己の口をついて出た言葉に、ユン自身も驚いた。

そして同時に、ああ、おれはこれがしたかったんだと納得する。

「……この世では、むやみに人を救うのは愚かだ。だが、むやみに人を傷つける奴も許せない。だから、そういう汚いことをさせようとし たあいつに……復讐
を」

一連の会話を黙って聞いていた茘枝の背に、悪寒とも似た戦慄が駆ける。

「…へぇ。今まで信じて守ってきた長に殺しを頼まれ、裏切られたみたいでキレちゃったんだ。傷つけられた復讐を、ね。そのために、お れっちたちに協力す
る、と」

ハクアの問いにユンは、そうだ、と頷く。

「ユン・リン」

「……なに」

「キミ、可愛いねぇ~」

「は??」

ハクアはユンの頭をくしゃっと撫でると茘枝に近づき、彼を拘束している縄をほどいた。

「寺本茘枝、今回は帰してあげるけど、次はないよ。相手がどんな奴か見極めてから接するようにネ」


 無事釈放された茘枝は、家に帰り着くと大きく溜め息をついた。

ユン・リン。

不思議な人だ。

この世の現実を見据えている。殺しは嫌いだが、復讐を強く望んで
いて。矛盾だらけだけれど、どこか理にかなっている気がする。

彼の言動の全てが、ある種の方向からみれば間違っているわけではない。

彼の言動の全てが、ある種の方向からみれば間違っている。

彼の存在は、美しく、また、恐ろしい。

ただ、そんなつかみ所のないユン・リンのことでも、茘枝には一つだけ、分かっていることがあった。

暗い海に佇む灯台のごとく、はっきりと、明らかに分かっていること。

ユン・リン。

彼はこのままだと確実に、美しいものを失う。

復讐に燃え、忌んでいた人殺しにその手を染め、殺人鬼と、化す。

そんなことは、あってはならない。



 困ったな、と、茘枝は呟いた。




+つづく+



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