第陸章

Chapter

「涼しくて、なんとも快適な部屋だねぇ」

「そうですね」

「こんなに歓迎されるなんて、思ってもみなかった」

「わたくしもです」

「だって、わざわざCCUまでお迎えが来たんだよ?
?そっから自動車でブーンってここまで。どうもありがとうございま すってとこだね。手間をかけてくれ
ちゃってサ」

「本当に」

「ふかふかのソファ、清潔なベッド。まず、ここまできてなんで生きてるのかも分かんないのに、こんな豪華な生活しちゃっていいのか なぁ」

「……そろそろやめたらどうだ。逆に虚しくなる」

ハクアとナガレの会話に、突然ユンが口を挟んだ。

つまり、そういうことなのだ。

今までハクアが喋った中にあった真実は二つだけ。

『CCUから自動車でブーン』と、『ここまできてなんで生きてるのかも分かんない』。

あとは全て真逆。

歓迎なんて、欠片もされていない。

今いるところは、蒸し暑く、不快指数が極端に高い。

ふかふかのソファと清潔なベッドの代わりに、堅い木の床と蜘蛛の巣。

ここまで来る車の中では、四人とも目隠しをされていた。だからユンさえ、ここがどこかは分からないらしい。

ただ、大活躍中の彼の“憶測”によると、おそらくここは、清水弟の研究所の中だろうということだった。

「…なんで殺されないんだろー…」

「弄びたいんだろ」

ハクアの問いに、ユンがボソっと答える。

「あいつらは、そういうのが大好きだ。弄び、なぶり、思う存分楽しんでから、殺す。奴らのもとでは、安息の死など、あり得ないんだ」

最低なヤツら、と付け足す。

コホン、と、ハクアが咳払いした。

「それで??」

「あ??」

「それで…裏切ったのは、誰なんだろうねぇ??」

気が抜けたように部屋の隅でうなだれていた茘枝が、ぴくっと顔を上げる。

お前、か。

そう思ったが、ハクアはあえて、見なかったことにする。

「あのさぁ…もうおれっち、ここまで来たら怒る気とかないからさぁ。この中に裏切った人がいるなら、素直に自首してくれないかなぁ。 だってもし、もしだ
よ??そのコが脅されてやったことだとしたら、全てそのコのせいにするわけにいかないじゃない。だから、疑ったり疑われたり、そうい うのがこれ以上激し
くなる前に、自首してくれないかなぁ」

「……」

「……」

「……」

沈黙。

そして。

「…わたくしは、怒りますけど」

「ナガレ??」

「誰が裏切ったにしろ、ハクア様が怒らなくても、わたくしは絶対に、そいつを許しませんから」

「ちょっと…」

自首しづらくなるような状況をつくって、どうすんの。

言いたかったが、ナガレの真剣な横顔を見ると、口を閉じざるを得ない。

「…とはいえ、名乗り出るだけ名乗り出た方がいいと思いますよ。…どっちが裏切り者かは知りませんが」

「おい、待てよ側近」

ユンがナガレを睥睨する。

「なんでおれたちだって決めつける??だいたい、あんただって可能性も、ないわけじゃないんだぜ」

「なんでおれが…」

「なんであんたが主人である長を裏切るかって??そんな事情までは知らねえよ。だけど、長の予定とかその日の行動パターンとかを知っ ていて、一番裏切り
やすいのは、どう考えてもあんただろ」

「おれは、十年以上ずっと、ハクア様に仕えてきた。今さら、なぜ裏切る必要があるんだ。ハクア様を傷つけたいなら、十年も待たないは ずだ」

「おれの知ってるヤツに、弄ぶのが大好きな人種がいてな」

「おれがそれだって言いたいのか」

「そこまで露骨には言ってないさ」

「…もう…やめようよ」

茘枝の弱々しい声が、ふっと漂う。

「疑い合っても、どうしようもないじゃん…。第一、裏切り者がいるかどうかも分からないでしょ…??気付かないうちに、僕らの作戦を 盗聴されていたって
ことだって……」

二度目の沈黙が、部屋に重く満ちる。

ハクアはそっと、溜め息をついた。

自分たちは確実に、なめられている。

部屋に閉じ込められただけで、拘束さえされていない。

…それが不満なわけではないが。

相手が油断しているということは、こっちにも切り返しのチャンスはあるかもしれない。

儚い望み。けれど可能性が無でない限り、望みを抱く価値はある。そう、信じて生きてきた。

大きく、息を吸う。

「…よしっ、じゃあ考えてみよーう!!」

「…何をですか、ハクア様」

「どうやったらこのピンチを乗り切れるか。さて、ここでキミの出番だよ、茘枝。頭を使うのは、得意でしょ」

「…いえ…ただ、機械と情報操作に少し詳しいだけで…」

「いいから。考えてみて」

むぅー、と妙な呻き声を発して、茘枝は考え込む。

キーン。

沈黙による、耳鳴りだ。

考えろ。考えろ。

茘枝を見つめながら、ハクアは念じる。

…と。

ふいに茘枝が、ゆっくりと話し出した。

「…これは…あくまでも、僕の考えですが…。清水弟さんは、死人の遺伝子を使ってコピー人間をつくるんですよね…。でもそういうのっ て、やっぱり普通は
あり得ないっていうか…その、つまり…中枢となるものがあると思うんですよ…」

「話の筋が、まったく分かんない。限りなく意味不明」

ぼやいたユンを、しっとハクアは黙らせる。

「茘枝、続けて」

「…はい…やっぱり、普通じゃできない…やりづらいことって、何かを中心にしなきゃいけないことが多いんです。ほら、例えば…コン ピューターにだって、
中枢になるCPUがありますし…あ、この世界だって、中枢は五人の長だし…」

「素敵なことだ」

「ユン」

「…それで…物事には必ず中心があるように、死者たちを動かす中心があると思うんです。つまり…その中心をつぶせば、死者たちは機能 しなくなると…」

「昔々、バウムクーヘンというお菓子があったんだとさ」

「…ユン??」

極度の緊迫で、とうとう壊れたのだろうか。

「甘くて、それは美味しいらしい」

「ユン、大丈夫か」

ナガレの目が、怪訝そうに細められる。

「美味しいんだけど、そのお菓子に、中心はないんだ」

「…は??…それで??」

「それで…終わり」

ハクアとナガレが、同時に溜め息を吐き出す。

もしかしたらユンは、この場の空気を和らげたかったのかもしれない。

だとしたら、大成功だ。

空気が和らぎすぎて、気が抜ける。

「ったくユンは、天然なんだか、空気を読めないんだか…空気を読みすぎてるんだか…よくわかんないよぉ」

「たぶん、最後のやつ」

「自分で言うなよ…」

やはりこういう場面で最も立ち直りが早いのは、ナガレだ。

コホンッと空咳を一つして、口を開く。

「それで、茘枝の考えでいくと、その中心のものを潰せば、一気に敵が減るかもしれない。そういうことだな。でも…その中心になってい るのが誰…」

ふっと、ナガレが口をつぐんだ。

「ハクア様…誰か、来ます」

きっかり五秒後。

部屋の戸が開いた。


「私は、きみたちを見くびりすぎていたようだ」

清水雅人は、入ってくるなり、こう言った。

 彼の後ろには、似た背格好だが、顔立ちは幾分落ち着いた男が。

清水一哉。

ユンは呟いた。

こいつらの顔は、忘れたくても忘れられない。

「…見くびりすぎたって、今頃気付いたのかよ」

苦々しく、吐き捨てる。

「…とくにユン、お前は最も、多くを知りすぎていた」

雅人が近づいて来る。

反射的に、後ずさった。

「お前を逃がさず、最後まで追うべきだったな」

「あの時はありがとよ。追わないでくれて」

強気に、強気に。

けれど、声が、手が、足が、震える。

いくらハクアが脅してきても、いくらナガレがいろいろな意味で襲
ってきても、ここまで恐れはしなかった。

怖い。

こいつは…南の長は、怖い。

わかっていた。

自分がこの人物を恐れていることを。

だから、ハクアやナガレになんと言われようと、彼らから離れ、一人でこの長の前に立つことは絶対にしないと…できないと、思ってい た。

なぜここまで清水雅人を恐れるのか。

それは彼が唯一、ユンの弱みを知っているからだった。

弄ばれたくない、苦しみたくない。けれど誰にも、屈したくない。

それが、ユンの弱み。

「…おおかた、お前の予想通りだ、ユン」

雅人は親父臭い息と共に、こう吐き出した。

「…は??」

「お前の予想が正しいと言ったんだ」

「予想って」

「…情報操作、香璃に刺客を送った目的、光る拳銃の製造理由」

ザッと、ハクアが立ち上がった。

「なんでお前は、ユンの憶測の内容を知っている」

「お黙りください、長殿」

清水一哉が穏やかな声で言い、それとは裏腹に、いつの間にか手にした銃の口をセントラルの長に向ける。

「ハクア様」

ナガレが、主人を庇って立ちはだかった。

「ボディガード…ですか」

一哉の声音に揶揄の響きが帯びる。

…まずいな。

ユンは思った。

そろそろ、清水兄弟が動く。

そうなったらもう、いくらナガレという戦いの名手がいるとはいえ、相手のペースにもっていかれてしまう。

行動を起こすなら、今だ。

ユンはそっと、腰の拳銃に手を伸ばす。



「ボディガード…ですか」

清水一哉の声を聞いた瞬間、ハクアの心に怒りが宿った。

ナガレは大切な側近で、大切な…従兄弟だ。

ボディガードという一言で片付くほど、単純な関係ではない。

ナガレは、モノじゃない。

「ナガレは、モノじゃない」

無意識に、声に出していた。

「ナガレは、モノじゃないんだ」

視界の隅で、ユンが少しずつ動くのを感じる。

「ナガレはおれの、完璧な…大切な、側近であり、無二の家族だ」

「臭いですね」

一哉の唇が、醜く歪む。

「無二の家族、完璧な側近。…なるほど」

「傷つけるな…」

ナガレの横に進み出て、低く呟く。

脳裏をよぎるのは、両親が死んだ日の、辛い過去。

そして。



「もう、オレの大切な人を、オレから奪うな!!」



叫んだ。

刹那。



『パァン!!』



短く鋭い銃声が響き、気付いた時には、ハクアはナガレに抱きかかえられて床に伏せていた。

「ハクア様!!お怪我は!!」

パァン、パァン!!

幾度も鳴り続ける銃声に負けないよう、ナガレが声を張り上げている。

「大丈夫、怪我なんてしてない!!」

「…お前ら、さっさと行け!!」

顔を上げると、ユンと一哉が床でつかみ合いになっている。

そのすぐそばに、脇腹から血を流している雅人が倒れていた。

「おれがここを止めるから!!茘枝をつれて、TTOの中枢だか何だかを探せ!!早く!!」

部屋の外から、音がする。

出入り口に駆け寄って外を覗くと、妙なカードを首からぶら下げた大勢の人間が、長い廊下の先にある螺旋階段を駆け下りてくる。

「…きっと…TTOの死人達だよ、あれ」

あまりの多さに、ハクアは呆然とする。

「危ない!!」

いきなり、背後から押し倒された。

パァン!!

鋭い音と同時に、向いの壁に銃弾がめりこむ。

「ハクア様、ぼーっとしてたら流れ弾に当たりますよ!?行きましょう!!」

「でも、ユンは…」

「…おれはっ、いいから!!おれは、こいつらにっ、復讐したいだけだから!!今、その最中なの!!あんたらに邪魔されたらたまんない だろっ!!」

ユンの拳が一哉の頬に当たって、鈍い音を立てる。

反撃しようと一哉が暴れ、二人は床を転げ回った。

「ハクア様!!」

ナガレに手を引かれ、部屋を出た。

創られた生きる死者たちの足音が、背後から迫ってくる。

「ナガレさんっ、どこに行くんですかっ!!」

恐怖に顔を引きつらせながら、ハクアの隣を走る茘枝が問う。

「おれにも分かんないよ、そんなの!!とにかく今は、逃げるんだ!!」

石造りの狭い廊下。

似たような色と形の扉がいくつも並んでいる。

それらを全て通り過ぎ、行き当たった階段を駆け下りた。

上の階にあったものよりもずっと大きな扉が、目の前にあった。

まるで、地下牢のような。

「押して!!」

重い扉を、三人で押し開ける。

少しだけ開いた隙間から、三人は滑り込んだ。

「閉めるぞ!!」

焦れったいほどゆっくりと、重たい扉が、閉まった。

ハクアは小さく溜め息をつき、振り返って辺りを見回す。

「…何ここ」

何も、なかった。

小さな虫の死骸や、埃の欠片さえ、ない。

真っ白な床と壁と天井、それから、今三人が入ってきた扉だけが、虚しく在るだけ。

「…困りましたね」

隣で、ナガレが言った。

「奴らはじきに追いついてきます。隠れる場所さえないなんて」

「迎え撃つしかない…ねぇ」

「…本当に…何もないんですか」

そう言ったのは、珍しく引き締まった顔をした、茘枝だった。

「だとしたら、変ですよ。どうしてこんな何もない空間だけのために、こんなに重くて頑丈な扉をつけたのか」

言われてみれば、その通りである。

「…目に見える物だけが全てじゃないんです」

茘枝は壁にそって部屋中を歩き出した。

「なに一人だけかっこつけてんのさぁ」

ハクアもナガレも、同じように部屋を調べる。

「…ハクア様、時間がありません」

ナガレの声は緊迫していた。

鋭い彼には、ハクアにも茘枝にも感じられない、追っ手の気配が伝わっているのだろう。

「ハクア様、扉が開きかけたらすぐに、私の後ろへ……茘枝!!」

急に名を呼ばれた茘枝は、驚いてひっと息を呑んだ。

「そこから動くな!!」

「どうしたの、ナガレ」

茘枝に駆け寄るナガレ。

ハクアはその背に声をかけた。

「…ハクア様もこちらへいらっしゃってください」

促されるまま、二人に近づく。

「…遠くから見ると、光の加減によって、この辺りが黄色っぽく見えたんです。何度も触られて、手垢で黄ばんだみたいに」

茘枝を押しのけ、ナガレはしきりに壁を探る。

「もしかすると、隠し扉か何かがあるのかと……」

長いナガレの指が壁を這い、ふっと、ある一点で止まる。

上から下へ、一直線になぞられ…

「…ここに、まっすぐな細い亀裂があります。…茘枝、一緒に押して」

二人で、肩を押し付けるように、壁を押す。

『ずず……』

ざらざらとした岩を木がこするような音を立て、壁の一部が引っ込んだ。

「ビンゴだねっ、ナガレ!!」

ナガレの肩越しに、中を覗く。

「また戸??」

灰色の無機質な金属扉。

ナガレが進み出て、ドアノブに手をかけ…開け放つ。

『パンッパンッ』

鋭い破裂音が鳴り響き、ハクアは茘枝と共に、ナガレに抱きかかえられるように床に伏せた。

ナガレが腰に手をやり、取り出した拳銃を素早く構えて反撃する。

『パンッパンッ』

相手からの銃声が止み、代わりに静かな声が響いた。

「よく、ここを探り当てましたね」

「清水一哉…!!」

ハクアは呻いた。

ナガレが庇うように伸ばした手を制し、立ち上がって部屋へ踏み込む。

広い、機械ばかりのある部屋だった。

所々に寝かせた筒状の水槽のようなものがあって、中にはホルマリン漬けにされた、人体の各所が泳いでいる。

そんな不気味な部屋の中央に清水一哉が立ち、顔が傷だらけのユンの後頭部に、銃口をつきつけていた。

兄の雅人はというと、負傷した脇腹を手で押さえ、しかしなぜか、顔に微笑をたたえて壁に寄りかかっている。

彼はふいに進み出てくると、ユンの横に立って口角を上げた。

「これが、最後の戦いだ」

「…決着をつける気なんだね、おじさん」

ハクアは挑戦的に、冷笑を返す。

「そんな簡単に、僕らを潰せると思ってるのカナ??」

「思い上がるな、若輩」

「思い上がりじゃないよ。あんまりナメない方がいい、南の長さん。ナガレの完璧な戦闘能力は、噂に聞いてるんじゃないの」

「完璧な、ね」

ユンが何か言いたそうに口を開くが、気配を察した一哉にすかさず殴られる。

「では、セントラルの長よ。その完璧さには、何も感じないのですかね」

「やめろ!!」

立ち直ったユンが、叫んだ。

「それ以上言うな!!」

「…ユン??」

ハクアは目を細めた。

ユン・リン。

お前は一体、何を知っている。

かつて南地区で重責を果たしてきたその目には、この状況がどう映っているんだ??

お前は、全てを知っ…

「取引です」

まとわりつくような甘い声音で、思考が遮られた。

清水一哉の妙に品のある笑顔に、焦点を合わせる。

「セントラルの長殿。わたしたち兄弟は、今日をもって、この茶番から手を引きましょう。あなたの命を狙うことも、あなたの生活の中に ある平穏を乱すよう
なこともしないと誓います」

茶番、か。

命を狙われ、ナガレにも危険な思いをさせてきたこの数日間は、単なる底の知れた遊戯だった、そういうことか。

確かに煩わしい日々だった。

でももうそんな生活は終わりにしましょう。

その申し入れは、大歓迎だ。

「ただし」

一哉の話は終わってはいなかった。

「あなたのボディーガードを、一時間だけ…いえ、何分間か、貸して下さい」

これにはナガレも驚いたようだ。

微かに、身じろぎする気配がある。

「てめ……!!」

ユンが、何かを言おうとした。

けれど次の瞬間には、怪我をしているとは思えないほど強烈な雅人の膝蹴りを腹に受け、胃液を吐いて崩れ落ちる。

「ユン!!」

茘枝がナガレの陰から悲鳴を上げる。

「…なぜ、こいつが必要なんだ」

倒れたまま動かないユンのもとへ反射的に駆け寄りかけたナガレをおさえ、ハクアは問う。

「…サンプルですよ。優れた戦闘能力。確かに噂には聞いていますからね。人体開発をしているわたしにとって、もってこいのサンプルな んですよ。…命にか
かわるようなことはしませんから、御心配なく。簡単な体力測定をしたいだけです」

「サンプル??冗談もほどほどに…」

「ハクア様」

ナガレがそっと、口を挟んだ。

「本当にあなたの命が助かるのなら、わたくしは行ってきます」

「ナガレ、なにバカなこと…!!」

「本気です。ハクア様、考えてみて下さい。もし彼が言う『命に関わるようなことはしない』というのが嘘だったとして、わたくしが彼の ような冴えない技術
者に殺されると思いますか」

一瞬、ハクアの心に隙ができた。

狙われて、逃げて、探って、緊張して。

そういう生き方は疲れた。

もう、こりごりだったのだ。

冷静な状態だったら、考える余地もなく、こんな申し出は却下していただろう。

しかしこの世界では、普通とか冷静とか、そんなことはあり得ない

だから、ナガレの自信に満ちた口調を聞いたとき、これは魅力的かもしれないと思ったことを、認めざるを得なかった。

「…まあ、ナガレなら、万が一のことがあっても負けることはないと思うけど…」

「言ったでしょう、ハクア様」

「え??」

「わたくしは、あなたを残して死んだりしません。約束、したでしょう」

わたくしが約束を破ったことがありますか、と。

ハクア、お前のことを守ってやるから、絶対に約束を破らないから、前の平和な生活に戻ろう。

早く、家に帰ろう。 

 偽りのないナガレの真剣な表情が、そう訴えていた。

「…五分だ」

ハクアは小さく、小さく、呟くように言った。

「五分だけ、ナガレを貸す。清水一哉、文句はないな」

一哉は一瞬兄の方を見て微かに頷き合い、「ええ、わかりました」と答えた。

「…それから…ナガレ」

「はい」

「命令だ。危険を微塵でも感じたら、躊躇せずに反撃しろ。それから、五分経っても解放してもらえなかったら、こいつらを殺めてもいい から、出てこい」

従兄弟同士で主従関係を結んできた今までの中で、最も厳しい声音での命令だった。

横にした長い人差し指を唇に押しあて、ナガレはゆっくりと頭を下げる。

「かしこまりました、ハクア様」



〔あなたに、変わらぬ忠誠を〕







「…行かせるな」

低く、掠れた声が出た。

「え??」

ハクアが問い返してくる。

「なに、ユン…」

「そいつを止めろ!!」

隣室に入りかけていた清水兄弟とナガレが、ぴたりと足を止める。

全員の視線が、ゆっくりと身を起こすユンに注がれた。

行かせてはいけない。

「あいつを、奴らに渡すんじゃない…」

黙っていたかった。

彼らの生活を、そして何より自分の生き方を、崩さないために。

均衡が、保たれるように。

できることなら真実を隠し、口をつぐんだまま、一生を終えたかっ
たのだ。

「…ユン」

ハクアの静かな声が、耳に流れ込んでくる。

「…きみは…何を知っているんだ」

何を知っているのかって。



全てを。

おれは全てを、知っている。

うんざりするほど聞かされた、己の正体。

セントラルタウンとの繋がり。



清水雅人が、不敵に笑んでいる。

そう、あいつの狙いはこれなんだ。おれが全てを話すこと。

ハクアを、ナガレを、そしておれを壊すこと。

破壊、再築。

やつは、それを望んでいる。

…否、望んでいた。遥か昔から。

そして今、その望みを叶えようとしている。



「ユン」

ハクアが焦れたように促してきた。

「何を知っているんだ。何を迷っているんだ」



「…すまない、ハクア」

ユンの口から、謝辞がもれた。

「おれは、何もしなかった。何もせず…裏切った」

「ユン…??待って、意味がわからない」

「お前に、黙っていたんだ、ずっと。…絶望させたくないから。お前を……守りたかったから」

できることなら、守り通したかった。

ハクアを、守りたかった。

でも…清水兄弟には、やはり敵わなかった。

奴らの野望のまま、この日がくることを、心のどこかで知っていた

「…二十二年前…おれは、生まれた」

何で語ってるんだよ、おれは。

清水兄弟の意のままに、何故語っている。

今までの苦労が、台無しじゃないか。

「ちょうどその時期、前例のない熱病が流行していて、その看病に追われていた保健課の医師や看護師たちは、新たな命の誕生にのこのこ つき合っていられる
場合じゃなかった。赤ん坊が生まれるとすぐ、ろくにその顔さえ確認せずに情報課へ回し、さっさと出生後の面倒な手続きを済ませたかっ たんだ…。だから
…」

口をつぐむ。

目を上げると、ハクアの揺れることのない視線にぶつかる。

「だから…気付かれなかった。…赤ん坊が入れ替えられたことに」

誰も、口をはさまない。

ある者はその状況を楽しんで。

ある者は驚きで。

ある者は真実の全貌が明らかになるのを待って。

「おれは、セントラルタウンで生まれた。…夕威家の、息子として



空気が、凍る。



「おれが、夕威流麗なんだ」



耳鳴りがするほどの沈黙。

そして。

くくっと、軽やかな笑い声が響き、やがてそれは嘲笑へと変わった

「何言ってんの、ユン!!腹蹴られたのに、頭に影響したの??」

やはり、信じられない、か。

それもそうだろうな。

でも。

「これが、真実なんだ」

笑い声が、止む。

「おれも嘘だと思ってた。でも昨日、セントラルタワーに行った時、証明された。ナガレの持っていた使えないICカードが、おれには使 えた。…セントラル
の機械は、嘘をつかない」

「じゃあ」

ヒステリックに、ハクアは叫んだ。

「じゃあ、あのナガレは誰なわけ!?お前が流麗なら、あいつは誰なんだよ!!」

隣室へ繋がる扉の前に立つナガレを指差して。

「あの子は一体、誰だよ!?」

「…息子の身体だ。…清水雅人の、死んだ息子の、身体」

「え…??」

「おれやハクアが生まれたのと同じ年、清水雅人にも息子が生まれた。でも彼は生まれてすぐに、死んでしまった。そこで、清水一哉はそ の身体を使い、戦闘
能力に優れた人工人間をつくり出した。…セントラルタウンを略奪するための、機械人間を」





嘘だと、思いたかった。

ハクアは、混乱する頭を振る。

そんなの、嘘だ。

誰か…誰か、否定してくれ。

頼むから。



我がままを言ったときの、困ったような笑顔。

温かい眼差し。

温もりを感じる肌。

確かな、血液の流れ。

主人を守るために傷つき、痛みに歪んだ顔。

忠誠心。

全ては、計算しつくされ、つくられた、二十二年前の陰謀。

セントラルタウン略奪計画は、この前始まったことではなかった。

ハクアが、ナガレが、そして清水雅人の息子が生まれ、死んだその年に、すでに歯車は回り始めていたのだ。

敷かれたレールの上を、そうとは知らず踊らされ続けてきた、二十二年。

聞きたくないのに、ユンの声は、勝手に脳へ侵入してくる。

「“ナガレ“は、清水雅人の息子の血と、骨と、肉。ただ、心臓は人口のペースメーカー、頭には脳の代わりに、それと同じような役割を 果たす機械。その機
械から南地区へ、日々データが送られる。その日、機械人間が何を見たか。何を聞いたか。何を言ったか。何を食べたか。今回、おれたち がここへ来ることが
バレていたのも、そのせいだ」

「でたらめを言うな!!」

ナガレが、ユンの襟首を掴んだ。

「おれは、おれだ!!つくられた??ふざけるな。おれは人間だ!!」

「そう、思い込んできただけだ」

ユンは抗うように首を振る。

「お前が、刺客を呼んだ。お前だから出来た。ハクアの家や、CCUという入り込みづらい場所へ、刺客を導き入れた。…ハクアの側近と いう地位と特権を
使って」

「もう、やめろ」

ハクアは悲鳴を上げていた。

頼むから、やめてくれ。これ以上、僕の生きてきた道を、崩さないでくれ。

日常を、壊さないでくれ。

怖い。

今までのナガレの完璧さが、怖い。

つくられた完璧さだと言われて信じそうになっている自分が、怖い

「やめて…やめてくれ」

呻く。

ユンから引き離したナガレに、すがりつく。

「ナガレ、嘘でしょ!?あり得ないよね!?」

「あり得ないですよ、ハクア様。わたくしは…」

「いいから、今は側近じゃなくていいから!!従兄弟として、否定して。あり得ないでしょ??きみは、僕の従兄弟だよね!?

「…もちろんだ。ハクア、おれは、お前の…」

ナガレの言葉が、途切れた。

その目は、驚きと恐怖に見開かれている。

次の瞬間、ハクアは眉間に、無機質な冷たさを感じた。



ナガレの右手が、ハクアの眉間に、拳銃をつきつけていた。



「…ナガレ…!?」

「違う、おれがやってるんじゃない…!!身体が…身体が、いうことをきかないんだ…!!」

「…やめろ、清水!!」

ユンが突然、一哉に殴りかかった。

「あいつを操作するな!!やめ…」

ドッ。

鈍い音。

一哉に蹴られ、ユンは床に倒れ込む。

刹那。

急に、部屋が騒がしくなった。

大量のTTO…生きる死者たちが、なだれ込んでくる。

手に黒い凶器を持って。

「…中枢だ…!!」

茘枝がハッと息を呑んで言う。

「死者の中枢は、ナガレさんの中にある機械だから、今作動して…

「ナガレはナガレなんだってば!!」

ハクアは怒鳴った。

どうしてみんな、人間じゃないって決めつけるんだよ。

二十二年間、機械と過ごしてくるわけがないだろう。

ナガレは、僕の、家族なんだから。

「…ご苦労様でした、ユン」

一哉がその甘い口調とは裏腹に、ユンを羽交い締めにする。

「ここまでの歴史を語るのは、疲れるんですよ。上手な説明でしたね。でも、もうここでキミの役目は終わりです。二十二年間、兄のボ ディーガードをしつ
つ、時間を稼ぐ。それが、キミの仕事でした。キミとこの機械人間をすり替え、セントラル側が機械人間を本物と信じてのんびり生きてい る間に、随分とこち
ら側の技術開発を進めることができましたよ。…セントラルタウンを統治するのに必要なだけの、ね」

南地区はセントラルに比べ、様々な技術がまだ未開発だった。

今までの二十二年間は、時間稼ぎだったのか。

セントラルと対等となる技術を開発するための。

そして、弄んだ。

ユンに真実を教え、苦しませ、利用し、準備ができてから、セントラルに送り込んできた。

僕を、絶望させるために。

ハクアは目眩に襲われ、ふらりとよろめく。



もう、おしまいだ。

僕は今日、ここで死ぬんだ。

殺されるんだ、今まで家族だと思っていた者に。

そしてセントラルタウンは、清水兄弟の手中へ。





「茘枝!!」

ユンは、悔しさと怒りにわななきながら、呼びかけた。

「撃つんだ、茘枝!!“ナガレ”を…中枢を破壊して、死者を止めろ!!」 

「やめて!!」

ハクアがナガレにすがりつく。

「撃つな、茘枝!!僕はいいんだ、もうどうだっていいんだ。死んだっていい!!だから、これ以上…これ以上、僕から大切な者を奪わな いでくれ…!!」

哀願。

ユンは知らず、唇を噛んでいた。

どうしてこうなってしまったんだ。

おれは、ハクアを守らなければいけない。

…従兄弟なんだから。

二十二年間、ずっと我慢してきた。

ハクアがその時陥っている危機を雅人や一哉から聞かされ、苦しめられ、守りたいのに守れない自分に腹が立って。

一ヶ月程前、「セントラルへ乗り込んでこい」と雅人に命令されたとき。

それが奴を楽しませるためだと知っていても、生まれて初めて従兄弟に会えると、歓喜していた。

だから、ハクアと間違いなく対面できるように不法侵入者として捕らえられ、その時に「南の長を裏切って撃たれた」と言い訳ができるよ う、左足を自分で
撃ったときの苦痛にも、耐えられた。

彼が、全ての頼みの綱だったのだ。

絶対にいつか、ハクアをこの手で守る。

そのために、清水兄弟に利用されても生きることから逸脱するという選択肢は、常に捨ててきたのだ。

一哉の手を振りほどこうと、もがく。

「茘枝、撃て!!ハクアが、殺されてしまう!!」

「やめて!!」

ふいに、ユンを拘束していた力が緩められ、前につんのめった。

さっと振り返ると、清水兄弟が微笑を浮かべて立っている。



さて、最後のショーを楽しませてもらおうか。

せいぜい、足掻いてみろ。



「ハクア!!」

ユンはハクアに駆け寄り、ナガレから引き離した。

「やめて、離して!!助けて、ナガレ!!」

自分に銃口を向けている者に対して、ハクアは救いを求める。

「ナガレ、ユンから解放して!!お願い!!ナガレ!!」

けれどもう、ナガレがかつての主の言葉に頷くことは、なかった。

「…ハクア、どうやらユンの…いや、流麗の言うことは真実らしい。おれはもう、自分で自分を制御できない」

美しい指が、撃鉄を弾く。

「行け…おれが撃ってしまう前に。行くんだ…!!」

「嫌だ!!」

「我がままを言うな!!お前を、殺したくない!!…ユ…流麗、連れて行ってくれ!!早く!!」

ナガレの右腕は、震えている。

「…もう限界だ!!抗えない!!早く!!」

「嫌だ、行かない!!ナガレと一緒にいる!!」

「おれは流麗じゃないんだ!!」

ハクアが梃でも動かないと分かると、ナガレは視線だけ、茘枝に向けた。

「茘枝、おれを撃て!!おれを壊せ!!」

「…え、僕…」

「拳銃の撃ち方は教えただろう!!」

「茘枝!!」

 ハクアは必死に首を横に振る。

ダメだ、撃っちゃ、ダメだ。

「やめてくれ、茘枝!!」

戸惑うように二人を見比べる茘枝。

そして。

彼は腰から拳銃を抜き、構えた。

「やめろ…ッ、やめてくれ……ッッ!!!」

声の限り、ハクアは、叫ぶ。



パン、パン、パァン…!!  長く尾を引く、三度の銃声。



時が、止まった。



涙でぼやけたハクアの視界。

その中で、三つの影が、倒れた。











 茘枝は、呆然と自分の右手を見つめた。

撃っちゃったよ、僕。

三人も、撃っちゃったよ…。

どうして彼らを撃ったんだろう。

僕…人を、殺したんだ。



「おい……」

ユンは…流麗は、思わず、ハクアを放してしまった。

けれどそのハクアも、あまりのことに言葉を失い、暴れることさえ
、忘れているようだ。

「おい、茘枝お前……」

ゆっくりと視線を上げた茘枝と、目が合う。

「ユン…」

「…なんだよ…」

「…どうしよう…僕…僕…」

カシャン。

茘枝の手から落ちた拳銃が、音を立てて床の上で跳ねる。

「僕…なんで清水兄弟さんを撃ったんだろう…」

「…知らねーよ…」

それは、こっちが聞きたいっつーの…。

悪い判断ではなかっただろう。

流麗は、見事に額を貫かれて倒れている二人の男へ、視線を移す。

完全に、死んでるよな…。

あっけない。

きっと彼らは、突然のことに、飛んでくる銃弾を防ぐ方法を考えることさえ、できなかったのだろう。

あまりにも、無防備すぎたのだ。

最後の最後で、詰めを誤った。

愚かな奴らだ。

それと。

流麗は二つの死体から、その二人がつくった人工人間へと目をやる

「ナガレ…」

ハクアが呟き、倒れているその傍らに膝をつく。

「ナガレ…!!」

「…ハクア…」

清水兄弟と同じ場所を貫かれているにも関わらず、“ナガレ”はうっすらと目を開けてふっと笑んだ。

「…もう心配ないよ…おれの身体を勝手に動かしてた回路が、壊れたらしい…から」

「ナガレ、置いて行かないで…!!」

「…ごめんな、ハクア」

「謝るな、ばかぁ…!!」

少し前まで銃を握っていた“ナガレ”の右手が持ち上がり、ハクアの頬に添えられた。

「泣くな…。みんな、あるべき姿に戻るだけなんだ…。ユンが流麗になって、おれは、二十二年前の死を…」

「僕にとって、ナガレはキミなんだよ!!」

「相変わらず我がままだなぁ…。心配、しなくていいから…。おれ、全然苦しくないし、痛くもないから…」

「そういうことじゃないんだってば…!!」

「…ああ…そろそろ、止まるらしい…」

「ナガレ!?」

「壊れた機械は、止まるんだよ…ハクア」

“ナガレ”はぼんやりとした目で、流麗を見つめた。

「あとは、頼んだよ…本物の、流麗さん…おれの代わりに…」

「あんたの代わりになんてならねえよ」

おれは、おれのままで生きるんだ。

「…そうだね…」

“ナガレ”がくすくす笑い、最後に茘枝へと視線を向ける。

「…茘枝、絶対、思い詰めるなよ…おれ…お前に感謝してる…。ありがとう…ハクアを、守ってくれて…。それから……拳銃の腕、上等 じゃん…??」

「ナガレさん…」

「…苦しめちゃってごめんね…ハクア…おれも、もっと生きたかった…。お前と、生きたかったよ…」

「ダメだナガレ、目を閉じるな!!」

ハクアの涙が、“ナガレ”の頬へ。

「ああ…涙って…熱いんだ…おれ、知らなかったよ。…おれは泣けなかったから。…機械だもんね…」

「自分で自分を皮肉ってどうすんだよ」

「はは…流麗、きみの突っ込みを聞くのも…最後、だね…」

「ナガレ!!」

「…楽しかったよ…今までありがとう、白鴉」

「ナガレ…ッ!!」

叫んだハクアの左胸に、“ナガレ”は手を当てる。



「これが、鼓動なんだ…自力で…脈打ってる…これが……生きるって、ことなんだね」





それが、最期だった。












+ 最終章+





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