四、




「おれはやめた方が良いと言ったつもりだったが」

「だが、お前しかいなかっただろう!
 俺は役人として顔が通ってしまっていたし、
 そんな者が突然検非違使の格好をして定期的に大内裏の様子を探りに行くなど、
 不可能だ!だいたい、俺も忠告しただろう、陰陽師には気をつけろって」

「あれは仕方なかった。…おれは顔が目立つんだ」

「お、お前…!」

「騒ぐな。おい、こっちだ。追っ手がかかる前にできるだけ遠くへ、身を隠さなければ」

 応天門に火を放った二人の罪人は、闇と混乱に乗じて京を抜け出し、夜通し駆けていた。
 夜が明けるにつれて空の色が怪しくなり、今では細かな水滴を滴らせる暗雲が立ちこめている。

「ったく…おい柊羅、ここはどこなんだ。俺は、京の外のことなど知らんぞ」

「構わない。だが死にたくなければ、おれから遅れるな」

 柊羅は俊足だ。風のように、走る。
 …一度手を組んだとはいえ、遅れれば立ち止まってやることはない。
 そう語る柊羅の背中を追うのに、倫慶は精一杯だった。

「柊羅…どこへ向かっているのかだけでも、教えてくれないか」

「……」
 土手を駆け下り、川の流れとは逆へしばらく走ったところでようやく、柊羅は足を止めた。
 京を出てから、初めてである。
 倫慶は思わず、その場にしゃがみ込んだ。

「服を、換えなければ。役人と、検非違使では、目立ちすぎる」
 さすがに息を切らしている柊羅の頬に、汗とも雨粒とも見える雫が流れた。
 大内裏に忍び込む為に纏った衣装を換える間もなく、京を出てしまったのだ。

「おい、息絶えるには早すぎるんじゃないのか。立て。置いて行くぞ」
 歩き出した柊羅は、そのままざぶざぶと、濁った川へ踏み入る。

「ま、まさか、このまま川の中を歩くんじゃないだろうな」
 慌てる倫慶。

「…そのつもりだが。後ろを見てみろ。踏み倒した草がおれたちの居場所を示してしまっている。
 ……ああ、気をつけろ。流れに逆らって歩くから、足をとられれば流されるぞ」

 倫慶は、京から背負ってきた薬草が水につからないように気をつけながら、柊羅の後を追う。
  ああもう、どうしてこんな状況になったんだか。
 俺が柊羅に声をかけたからだよな…。
 自覚すると、より情けなくなるのだった。

「……まずいな」
 しばらくして、柊羅は水音に負けそうなほどの声音で呟いた。
 迂闊だった。
 この川がこれほど危険だとは。

「…あん?なんか言ったか」
 川の冷たさと雨の肌寒さに苛ついた、倫慶の問い。

「…あんた、気付かないのか」

「は?どういうことだ、柊羅」

「…川からあがらなくては。だが…陸路だと跡を残してしまう…」
 やむを得ないだろうか。
 今のこの状況と、痕跡を追ってくる奴等から逃げ仰せるのと。
 望みはどちらにあるのだろう。

「…おい、柊羅、聞いてんのか。どういうことか説明しろって…」

「川から上がる。急げ」

「おいおい…」
 まとわりつく水を蹴り分け岸へ向かう柊羅を、倫慶は突っ立って見ている。

「何をしている、早く来い」
 振り返り、柊羅は緊張した声で促した。

「だから、説明しろって。陸に上がるとまずいんだろう?だったら…」

「あんた、本当にまだ気付いていないのか。
 おれたちが今立っているのは、蛭(ひる)の住処の真ん中だ。
 あんた、どこまで鈍いんだ」

「…蛭?…それは、食えるのか…?」

「……」
 これには柊羅も、言葉を一瞬、言葉を失った。

「…確かに…あんたが全部食ってくれたら、苦労しないだろうな」

「柊羅、お前本当に……いッ!おい、何か…何か、足に噛み付いたぞ!」

「食ってみればいいだろう。食われる前に」
 言いながら柊羅は片足を水から引き上げ、今しがたその脛にかぶりついた小さな虫を、忌々しく引きはがす。
「な、何だこれは!ひっ、やめろ!噛むな!」

「三つだけ教えてやる。
 一、その虫はあんたの血を吸いたがっている。
 一、その虫には、あんたの言葉も命令も通じてないと思う。
 一、ひからびたくなかったら、おれについて陸に上がった方がいい」

 言い終わった時にはすでに、柊羅は両足を水から引き上げ終えていた。
 足に張り付いていた数匹の蛭をはがし、川に放り込む。
 倫慶もようやく、奇声を上げながら陸へ上がってきた。

「おい、動くな。これ以上草を踏み倒したらまずい」

「だったらどこが安全なんだ!」

「…安全?」
 なんとおめでたい奴だろう。

「そんなもの、本当にあると思っているのか。死ぬまでおれたちの周りには危険しかない。
 前にも、後ろにもな。行くぞ。夕方までには着かなければ」

「…着く?着くって…どこへ?」
 倫慶の問いは返される答えのないまま、空しく水面を漂った。



「おい、おばば」
 日が山の向こうへ落ちる寸前。
 柊羅と倫慶は、古びた小屋の前に立っていた。
 声をかけながら、柊羅は戸口を乱暴に叩く。

「いるんだろう。おばば」

「………」

 小屋の中からは、何の返答もない。
 …留守なのだろうか。
 柊羅は拳を下ろし、眉を顰める。
 すぐに戻ってくるだろうか。
 …いや、それとも、もしかして…

「柊羅…お前さんここに何の用があったんだ…?…あ?」

 先ほどから背後の木にだらしなく寄りかかっている倫慶が、疲れたように問うてきた。
 小さく息を吐き、

「あんた記憶力腐ってるのか。さっき言ったろう、服を調達しなくてはいけないと」
 ああ、という魔抜けた返事を聞きながら、柊羅は小屋の戸に手を伸ばした。
 開け放つ。

「……ちっ…」
 思わず舌打ちをした。

「…は?どうかしたのか、柊羅」

「遅かった」
 中は散々荒らされていた。
 売り物の服が散乱し、引き出しという引き出しは全て暴かれている。

「…なんじゃこりゃあ」
 倫慶が驚愕を露にした。

「おれは京へ行く前、ここで少しの間世話になった。それがどこからか漏れて、奴らの手が及んだんだろう」
 小屋に上がり込みながら、柊羅は淡々と言う。

「お…及んだんだろうって、お前…」

「大丈夫だ。おばばは弱くない。
 連れ去られただけで、大した危害は加えられてない……といいが」

「お前さん、そんなに落ち着いてていいのか!」

「おれが落ち着くしかないだろう。あんたがそんなに動揺してるから。
 …おい、戸、閉めろ」
 服の山を隅へ寄せ、ようやく見えた床に腰を下ろす。

「まあ、おれたちにとってはよかったのかもな。
 奴らも、一度調べたところへは、しばらく来ないだろう。今日はここを借りる」

「そ、そのおばばとやらを助けに行かなくていいのか」
 薬草の籠を下ろして座り、柊羅の向かいの壁に背を預けて、倫慶は尋ねた。

「少しはその固い頭を、使ってほぐしてやれ。今おれたちが乗り込んだところでどうなる。
 夜通し走り、蛭に噛み付かれ、跡を消しながらここまでたどり着いて、
 それでもあんたが元気だって言うなら、おれは…そうだな。尊敬するよ、あんたを。…けど」
 柊羅は、鼻を鳴らす。

「到底、そうは見えないな。おれの目が曇っているのか」

「もういい、わかった。皮肉はやめろ」

「事実を言っただけだ。奴らがどこに、どれだけの人数で居るのか。わからずに動くのは危険だ」





「そ、そのおばばとやらを助けに行かなくていいのか」
 …薬草を担いでこんなに歩いたのは初めてだ。腰が痛い。
 壁際に、座り込んだ。

「少しはその固い頭を、使ってほぐしてやれ。今おれたちが乗り込んだところでどうなる。
 夜通し走り、蛭に噛み付かれ、跡を消しながらここまでたどり着いて、
 それでもあんたが元気だって言うなら、おれは…そうだな。尊敬するよ、あんたを。…けど」
 
 ふんっ。
 小馬鹿にしたような音。

「到底、そうは見えないな。おれの目が曇っているのか」

「もういい、わかった。皮肉はやめろ」

 どうしてこいつはこんなに口が達者なんだ。
 疲れる。

「事実を言っただけだ。奴らがどこに、どれだけの人数で居るのか。わからずに動くのは危険だ」

 冷たい響きに、思わず顔を上げた。
 …慣れている、こいつは。
 ふいに、そう思った。
 自分が傷つくことにも、周りが傷つくことにも。
 命を狙われる、危険にも。
 ふっ。
 小さく笑ってしまった。

「…あんた、大丈夫か。何、笑ってるんだよ」
 怪訝そうな柊羅の声に、僅かながら、澄んだ瑞々しさを感じる。
 とんでもないものを背負って生きてきたんだ、若輩のくせに。
 俺よりもずっとすごい過去があるんだろう。
 なあ、そうだろう。刺客請負人、柊羅。

 外は薄暗い。
 始まりの一日が、終わろうとしていた。




第  章



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