三、




「…ふうむ」

 陰陽師、滋岳川人(しげおかのかわひと)が吐き出した嘆息の先には、卯月の星々が瞬いていた。
 良くない。
 京の重役たちを示す明るい星が翳っている。
 ああそうとも、良くない兆しだ。
 近々、京で何かが起こるであろう。

「…川人様」
 呼ぶ声に、川人は振り返る。

「おお…是雄か」

 川人の弟子、弓削是雄(ゆげのこれお)であった。
 彼がこんな夜更けにわざわざ川人の屋敷を訪ねてきた理由は、一つしかない。

「是雄、お前も気づいておるか」

「星の翳りが…気がかりです」

「…であろうな」

 是雄は式占の才に長けている。

「…ですが川人様、それだけではないのです」

「……」

 先を促す沈黙。

「わたしは…いえ、過信しているわけではありません。
 まだまだ、修行の身です。しかしながら…」

「躊躇うことはない。思うまま、申してみよ」

「…はい。実は…孟春の頃から、どうも才がうまく働かないのです。この星の翳りも…」
 言いながら是雄は、孟夏の夜空を仰ぎ見る。

「ともすれば見逃すほどに」

「……」
 川人はふと、眉を顰めた。
 この星の翳り方は、陰陽寮で学ぶ最中にある若き陰陽師たちに、それほど明確に見えるものではない。
 しかし、式占を得意とする是雄が容易に見落とすほど、僅かなものでもなかった。

「…疲れておるのではないか」
 言ってから、そうではないだろうと思う。
 孟春の頃から…か。

「何故今まで黙っておった?もう三月以上も前ではないか」

「初めは、思い違いかと。しかしここのところどうも、酷くなってきたようで」

「…心当たりは?」
 三月前に、才を鈍らせるようなきっかけがあったのだろうか。

「……一つだけ。この事と関連しているのかはわかりませんが、
 同じ孟春の頃から、やたらと検非違使とすれ違うのです」

「…検非違使?」

 彼らは、京の治安維持を任されている者たちである。

「はい。…容姿の美麗な若者です。
 気になって昨日、別の検非違使に容姿端麗な若者の検非違使はいるかと問うてみたところ…
 そのような者は知らぬと言われました」

「……奇妙だな。…くせ者が紛れ込んだか。
 その者が一体何の害をお前に与えているかはわからないが、
 できるだけ顔をあわさぬよう、気をつけるに越したことはない。また何かあれば知らせよ」

「はい、川人様」
 是雄が再びその検非違使に巡り会ってしまったのは、それから僅か、数日後のことだった。

「待たれよ」
 顔をあわせるなとは言われた。
 けれども出仕の途中でその検非違使が向こうから歩いてくるのに気付き、
 思わず声をかけてしまったのだ。
 検非違使が立ち止まる。

「…何か」
 不思議と耳に心地よい、澄んだ声音。

「近頃よくそなたを見掛けるのだが」
 検非違使は冠の下の整った眉を、訝しげに顰めた。

「なぜそのようなことを気になさる。この辺りの警備を任されているのだ。陰陽寮も近い。
 すれ違って何かおかしいことがあるのか」

「…いや」
 そう言われてみれば、そうかも知れない。
 しかし。

「一人で警備をしておるのか?それに…ほかの検非違使に尋ねたが、そなたのような者は知らぬと…」

「…ではあなたは、この世の陰陽師たちを知り尽くしていると」

「…は?」

「そうではないのだろう。陰陽師だからといってすべての陰陽師を知っているわけではない。
 検非違使だからといってすべての検非違使を知っているわけではない。ただそれだけのことだ。
 …失礼する」
 
 是雄は去り行く検非違使を、見送るしかなかった。
 その翌日である。

「川人様、お呼びでしょうか」

 酉の刻。
 日はすでに落ちている。
 是雄はその日の出仕のあと、川人の屋敷に寄った。

「うむ…是雄、入りなさい」

「失礼します」
 川人に促されるまま、円座に腰を下ろす。

「……」

「…川人様?」
 沈黙に耐えかね、是雄は呼びかけた。

「……時は満ちた」

「…はい?」

「そう、占筮には出ておる。何か起こるとすれば…」

「今宵…ですか」
 重々しく、川人は頷く。

「これから、大内裏の様子を見に行くが」
 川人の言わんとするところは、分かり切っていた。

「お供させてください」


 二人で滋岳邸を出た、まさにその時であった。

「…川人様、煙の匂いが…」

「…星が見えぬ…この風は……大内裏の方角からだ!急ぐぞ、是雄!」

「はい!」
 紅く、白く、闇は切り裂かれ、行く手の空に黒煙が上っている。

「川人様、あれを!」
 大内裏の入り口、朱雀門の周囲では、大混乱が起こっていた。
 慌てふためく役人たち。

「何事だ!何が燃えているのだ!」
 川人が近くの袖を引き、きつく問う。

「ああ、陰陽博士殿!応天門だ、応天門が火を噴いている!」

 
 応天門炎上。
 貞観8年閏3月10日(西暦866年4月28日)の、夜のことであった。







・・・・・・・あとがき・・・・・・・
 私が彼らを通じて読み手、つまり皆さんに伝えたいものは何なのだろう。
 この章を書く中で、私はふと、そう思いました。
 ここからは本作の裏話になってしまいますが、時間と気の許す限りお付き合いくださいませ。

 正直に言ってしまえば、そもそもこの作品の構想が浮かび、
 言葉として、文として表現することに着手したのは、たぶん、好奇心からでしょう。
 知的好奇心だとか、歴史に対する好奇心じゃない。
 もっと軽い、いわば「こんな話も書けたりするのだろうか」という、単なる自分への好奇心です。 
 なんと愚かなことか。
 自分試しで書いたものを、自分試しで世の目に晒す。
 これはつまり、自己満足でしかありません。
 ここで、冒頭に戻るわけです。
 私が伝えたいものは何なのか、と。

 私は今までの自己世界を捨て、改めて「京舟」と、
 そして柊羅と倫慶という、二人の男と向き合ってみました。
 そうして気付いたのは、これまでの一章、二章、三章は、足がかりに過ぎないということです。
 実はこれまでの三つの章を合わせて一幕という区切りにしようと考え、この場を「あとがき」としています。
 しかし私は、この三章で出現した「応天門の変」という歴史的事件を表したかったわけではない。
 これは、話の本質ではないのです。
 私が真に描きたかったのは、これから起こること。

 「歴史は繰り返される」

 私はこの、繰り返される歴史を書き上げたい。否、描き上げたい。
 つまり、「平安の時代に見る現代」を。そう、思ったのです。

 長くなりましたので、一幕のあとがきはここまでにしておきます。
 早々に第二幕、四章をお届けできるよう努力致しますので、その時はまた、
 なかがきでお会いしましょう。
 これから展開される平安時代に、これからの柊羅・倫慶に、
 現代の社会・人間たちを思い描きながらお読みいただけると光栄です。
 それでは、また。


   《鹿鈴》



第  章



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