一、
晩秋の末日、酉の刻。
笠を深くかぶり、人気のない街道を颯爽と歩く一つの影。
ざりっざりっと、その男の履くわらじが地を擦る音が響く。
虫の鳴き声を運ぶ微風が、縹と白の着流しの裾をはためかせた。
「…畜生、寒くなってきやがった…」
そう呟き、ふと、足を止める。
道の脇にぽつん、と建つ、一軒の茶屋。
自然と足がそちらを向き、紅の暖簾をくぐる。
「いらっしゃい。旅の御方かねぇ」
目尻の下がった優しそうな顔つきの媼が迎えた。
手際よく茶と団子が並べられ、男は低い腰掛けに座る。
「まあな」
何気なく笠をとる仕草。
媼はまるで魅せられたように見つめた。
「ありゃぁー、あんた、綺麗ねぇー」
「よく言われる」
男は口角を上げ、悪戯っぽく微笑した。
頭の高い位置で一つに束ねられた、漆黒の長髪。
透けるような肌と澄んだ瞳、通った鼻筋、鋭利な輪郭。
「なんでぇ、あんたみたいな若者が旅をしとる?どちらへ行きなさるんね?」
「平安京〔たいらのみやこ〕に、ちょっと用がね」
「あんたぁ、今あそこで何が起きてるのか知ってなさるのかね」
少し驚いたように、媼は目を見開く。
「何が起きてるんだい?」
のんびりと茶をすすり、団子に手を伸ばしながら、男は問う。
「なんだかわしもよく知らんが、信様と善男様が不仲だってぇ、噂になっとるわ」
「…ああ」
ここでいう信様とは、左大臣源信〔みなもとのまこと〕、善男様とは、大納言伴善男〔とものよしお〕のことである。
「まあ、大内裏のことは、おれには関係ない。よそ者だから、用がすんだらすぐに都を出るつもりだしな」
「そうかい。だけどあんたぁ、あんまり下手なことに巻き込まれないようにせんと」
「何だ、ばあちゃん。えらく心配してくれるんだな」
「わしゃぁ、あんたに一目惚れしたからね」
「それはどうも」
媼は皺でくしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにして笑う。
身体の芯がぽっと温まるような、笑顔だった。
「あんた、先をお急ぎかね?急いでないんなら、そろそろ日も落ちるし、泊めてやってもいいんだよ」
「ああ、ありがとう。でも、できるだけ早く京に着きたいんだ。気持ちだけもらっとくよ」
男は、空になった盆の上に、ちゃりん、と小銭を置く。
「ごちそうさん。うまかった」
笠をかぶって立ち上がった男の手に、媼が柔らかいものを押し付けた。
「これは、あんたにやるよ。道中、物騒なもんにからまれないようにせんと。お守りじゃ」
「…悪いな。ありがたく、もらっておく」
「気いつけやぁ」
媼の声に見送られ、男は茶屋を後にした。
京〔みやこ〕の秋は忙しない。
冬の気配を感じさせる北風に、買い込んだ食料を背負う背中を丸め、誰もが早足で行き交う。
男は、梅小路と朱雀大路の交わったあたりに佇んでいた。
羅城門から京へ入り、この辺りまで歩いたところで、丁度日が暮れてしまったのである。
京へ足を踏み入れるのは初めてのことであった。宿をとろうにも、どこにあるのかわからない。
男は脇差しをそれとなく弄びながら、笠の下で微かに、整った眉を顰めた。
(やはり、あの茶屋で世話になればよかったか)
今更悔いたところで、どうしようもない。
とりあえず辺りを彷徨ってみようと、一歩踏み出し…
「宿がいるのか?」
背後からふいに声をかけられ、男は俊敏に振り返った。
無精髭を生やした巨漢が、そこに居た。
警戒から足を引いた男の体躯も、決して華奢なわけではない。
しかし、熊のような人間と向かい合えば、誰だって小さく見える。
「俺のところに来るか?」
熊男の声は重く、深い。それだけでも相手を十分に威圧する風格があるのに、
彼は香色の袴と白の長襦袢を、見事なまでに着くずしている。
「…真意が計れない。なぜそう無防備に、素性も知れぬ男を泊めてやると提案できるのだ」
「俺がそんなに信用ならないか」
「当たり前だ」
「そこまで警戒されるとはな」
熊男は豪快に笑う。
「お前さん、あれか?京に来たのは初めてか?だからそんな、鹿みたいに敏感なのか。
それとも、俺のように初めて出会った奴に知られてはならない正体があるのか?」
「黙れ。おれが何者であろうと、誰かに口出しされる筋合いはない」
足早に去ろうとして翻した肩を掴まれる。
大きな掌、強い力。
「お前さん、笛を吹けるんだろう」
低い囁きが、耳元を駆け抜けた。
「懐から笛頭が見えた。頼みがある。俺のところでそいつを吹いてくれないか」
澄んだ笛の音〔ね〕は、京の風を揺らして響き渡り、人々の心を夜空へ誘〔いざな〕う。
爪のような細い月から放たれる光が、暗闇から確実に、男を青白く浮かび上がらせた。
激しく、鋭く、軽く、緩やかに。
その音は揺るぐことのない残響を土産に、やがて彼方へ消え去ってゆく。
「思った以上だったな。お前の笛は、人魂をも攫う」
音が消えてしばらく経ってからも沈黙していた熊男が、出し抜けに発した言葉である。
彼の手の中では、翼に深い傷を負った小鳥が息絶えていた。
「笛吹き、お前、名はなんという?」
「尋ねる前に、自ら名乗るべきではないのか」
口角を指先で拭いながら、笛を吹いた男は、その少々人間離れした美貌を巨漢に向ける。
「ああ…そうか。俺は倫慶という」
「…柊羅」
「しゅら?」
珍しい名だ、と、倫慶と名乗った大男は呟く。
そうだろうな、と柊羅は思う。
誰も真の名を名乗るとは言っていない。
けれど柊羅はそう告げてやるほど親切な人物ではなく、
無論これから先も、本当の名を教えるつもりは、さらさらなかった。
「その鳥は、鳶にでもやられたのか」
柊羅が尋ねると、倫慶はようやく、手中の小鳥を思い出したようだった。
頷くとも首を傾げるともつかない動作のあとで、「わからない」という返答がある。
「二日前に、家の前で見つけたんだ。俺は薬草を作って売っているんだが、
さすがにこの小さな鳥に大きな怪我となると、対処できなくてな」
苦しみから解放してやりたかったが自らの手にかけることができず、せめて慰めてやりたいと、
たまたま道で見かけた笛を持っている柊羅に、声をかけたという。
「もって今夜だとは思っていた。最期にあんな美しい笛を聴かせてやれて、よかったよ」
礼を言う、と、ぼさぼさの頭を下げた倫慶を一瞥し、柊羅は大量の薬草がぶら下がっている天井を見上げた。
「本当に一晩泊めてくれるのか」
「ああ、構わない。やれるのは寝床だけだがな」
「…草は?」
「は?」
柊羅の瞳が剣呑な光を帯び、その視線が再び倫慶へと戻った。
「草を、くれないか」
倫慶は相当面食らったのだろう。
「草…?薬草が欲しいのか?雑草が欲しいのか?」
間の抜けた問いである。
けれど柊羅が欲しいのは、そのどちらでもなかった。
「…毒草。毒草が欲しい」
ひっと息を呑む音。
「柊羅…お前さん、何者なんだ…」
おれが何者であろうと、口出しされる筋合いはない。
…とはさすがに言えなかった。
対価として笛を吹いたとはいえ、倫慶の家に上がり込んでいるのは事実である。
相手の名を知ってしまった。
こちらの顔を知られてしまった。
この大男とはすでに断ち切れない関係になってしまったことを、柊羅は悟った。
「…おれは請負人だ」
「…請負人?」
「大抵は依頼人に向けられた刺客の、刺客になることを請け負う。
今回はそこから少しばかり発展してしまった」
依頼人がこれまでにないほど世に知られる人物であったためだ。
「…おれは、この京の政〔まつりごと〕を、乱すつもりだ」
・・・・・・・・・・なかがき・・・・・・・・・・
みなさん、お久しぶり、または初めまして。鹿鈴です。
初めての歴史小説。
上手くできる自信は皆無ですね(笑
でも精魂込めて書き上げるつもりですので、辛抱強くお待ち下さいませ。
始めにお断りしますが、この物語はフィクションです。
実在の人物、実際の歴史の拝借はありますが、それらを基にした完全なるフィクションですので、
あらかじめご了承ください。
《鹿鈴》
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2008-