五、
何かが聴覚に訴え、覚醒した。
朝だ。この小屋に、その周囲に、朝が訪れた。
柊羅は長く深く、息を吐く。
それは、安堵の溜め息。
夜のうちに何も起こらなかったことへの、安堵。
柊羅の聴覚を刺激したのは、小屋の外から微かに聞こえる、小鳥のさえずりだった。
首を巡らせ、辺りを確認する。
向かい側の壁に背を預け、少し前の柊羅と同じように眠っている倫慶がいた。
立ち上がり、近づき、寝息を立てている彼の頬にそっと手を寄せ…
強く、耳朶を引いた。
「……って!」
倫慶が文字通り飛び起きる。
「いつまで寝ているつもりだ。
今あんたに近づいたのがおれじゃなければ、あんたはどうなっていたと思う?
無防備すぎないか」
「…そんなに神経質になるなって…。
そもそも柊羅、お前さん自身が、昨日の夜、しばらくここは安全だと言っただろう」
「…誰が。ここへはしばらく追手が来ないだろうと言っただけだ。安全だなんて、一言も言った覚えはない」
「…しばらく来ないのなら、安全という…」
「黙れ。あんたもつくづく呑気だな。おれたちの敵が、追手だけとでも思っているのか」
また、溜め息をつきそうになる。
なんだって、こいつはこんなに危機感がないんだ。
「…行くぞ。黙ってついて来い。……ああ、それと」
柊羅は倫慶に背を向けかけ、ふと思い出して振り返った。
自分の頬を指差し、告げてやる。
「よだれの痕がついてるぞ…ここに」
小屋の裏手には、森が広がっていた。
「…おい、なんなんだよ、さっき言ってた追手以外の敵って」
「……」
「柊羅、聞いているのか」
倫慶は小屋を出てからずっと、同じことを問うてきている。
「なんだよ、敵って…」
「あんたな」
足を止め、振り返った。
倫慶の片頬が、赤く色づいていた。しばらくこすっていたらしい。
「自分で考えたのか。聞かなくてもわかるだろう、そのくらい」
「…は?」
「は、じゃない。
飢えや寒さや疲労があんたの友人っていうなら、ぜひとも紹介してもらいたいって、言ってるんだ」
「…そんなこと言われた覚えがないぞ」
「だったら、あんたの記憶障害だ」
言い放ち、前を向いて歩き出す。
このまま倫慶にかまっていたら、いつまで経っても食事にありつけない。
「言っておくけど火は使えない。跡が残るからだ。そのまま食べられそうな木の実や草を探せ」
「そういうことなら柊羅、もっと早くに言ってくれるべきだっただろうが」
「……なぜ」
「俺はそっちの手の専門だぞ?だてに薬草を売りさばいてるわけじゃない」
「…どうだか。あんたなら、雑草も良薬と偽ってそうだな」
「馬鹿言え。俺をどれほど見くびってるんだ」
「…少なくとも、まったくあてにはしてないな」
そう返事をして、近くの木の根本にしゃがみ込む。
「…なんだ、なにか見つけたのか」
倫慶が手もとを覗き込んできた。
「…なんじゃそりゃ」
「この草はわりと腹にたまる。味も悪くない」
柊羅は引っこ抜いた植物を半分にちぎり、片方を倫慶の口に突っ込んだ。
「……甘いな。そうか、食えるのか。これ」
「知らなかっただろう。あんたは草を商売道具としか考えてないからな。
非常食として見たことがないなら、こんなこと、わかるはずもない」
摘んだ草を倫慶に持たせ、立ち上がってしばらく行くと、今度は倫慶から声がかかる。
「柊羅、あそこに茸が」
「あれは毒だ」
「………」
それ以降、倫慶がなにか知らせてくることはなく、柊羅は黙々と食料調達に勤しんだ。
…請け負いの仕事は久しぶりだ。
しばらく大きな危機に直面していなかったからか、少々気の抜けている自覚がある。
そもそも人を連れて逃げることが初めてで、こんなにのんびり草をむしっていていいのかと思う。
カサリ。
柊羅ではない。倫慶でもない。獣のように軽くもない。
異質な音が、思考を破った。
「あ、そういえば柊羅…」
「伏せろ!」
まったく時を誤って再び口を開いた倫慶を、柊羅は押し倒した。
ドッ。
横の木に、白い矢が立つ。
素早くその角度を見て狙いを定め、近くの茂みに向かって跳ぶ。
「…うっ」
狼狽した呻き声。
目の前の足首を払い、即座に立ち上がって、転がった人影に馬乗りになる。
上質な衣を纏った、若い男だ。
喉に手をかけ、締め付けた。
「……くっ」
男の手から弓矢が離れる。
「…京の者か」
少々手を緩め、低く、重たい声音で問うた。
しかし、男は何も答えない。
「…京からの追跡にしては、早すぎないか」
「…京…は、関係…な…い」
「そうか、京の者か」
「…な…に…」
「本当に京からの追手でないならば、この問いかけには反応しないはずだ」
柊羅は手刀を、男の首筋に容赦なく叩き込んだ。
「出発する。もうここにもいられない」
振り返って、茂みの外にいた倫慶にそう言う。
深い紺の羽織の裾を翻し、森の奥へ足を踏み入れた。
「おい待て柊羅。小屋に、おれの薬草が…」
「あんた、討たれに行く気か」
声は冷静を繕う。
だが内心は焦りで埋め尽くされていた。
早い、早すぎる。
慎重に跡を消して逃げてきたはずだ。京からも、それほど近い距離じゃない。
それなのにどうして、こうも居場所が知れてしまうのだろう。
わからない。
否…もしかしたら。
前を行く柊羅の背を、必死で追いかける。
戯けが。おれの大切な薬草をどうしてくれるつもりだ。
思っていながらも柊羅を追うのは、それが生き残るためだとわかっているからだ。
危険の中で生き抜く知恵も、技術も、判断力も、目の前の人間は持ち合わせている。
厄介ごとの種を笛と共に懐に忍ばせていたのは柊羅だが、
その種を蒔くように仕向けたのは、間違いなく自分、わかっている。
だからこそ、這ってでも追うのだ。命がけで、走るのだ。
「もうここは京じゃない。上官に媚びを売り、惚けて過ごす時は終わった」
目覚める少し前、夢の中で柊羅に告げられた。
ああ、そうなのか、と思った。俺の行く先には、罠と、罪と、罰しかない。
惚けてはいられない。確かに。
「…もしかしたら…」
「あ?」
夢ではなく、現(うつつ)に柊羅の声を聞いた。
独り言に近く、不明確でこそあったが、確かに呟いた。
「もしかしたら…あいつらか……」
「…柊羅?」
「……だとしたら、捕まった方が、話が早い」
突然、柊羅が歩みを止めた。
「柊羅、お前さん今、何て…」
「倫慶」
柊羅の真剣な視線を正面から受け止め、倫慶はたじろぐ。
腕を引かれ、大樹の根に座る。
「多少草を倒したとはいえ、跡は消してきた」
「…何の話だ、柊羅」
お前さんは、思考を自己完結しすぎだ。
そうしてわからないと尋ねるのに、柊羅はいつも一瞬、表情に憤りをにじませる。
苛立ち。
そして、呑気な奴だと悪態をつかれる。
「倫慶、おれは今、昨日の話をしているんだ。蛭の川から上がったあと」
「…ああ」
「草を倒したとはいえ、それほど多い量じゃない。普通なら見のがすはずだ。
そのあともずっと、足跡を消して小屋まで辿り着いた。…それなのに、追手はさっき、追いついてきた」
「…そうだな」
「本当にわかっているのか、あんた」
あきれた声で問われる。
わかっているさ、そのくらい。現状認識くらいできる。
「不自然に早いと、思わないか。早すぎると」
「…確かに」
「もしかしたら…」
柊羅の目が、すっと細まった。
「あいつらが関わっているのか」
「…あいつら?」
「……陰陽師」
…あり得るかもしれない。
そう…可能性は、かなり高い。
「そうだな。奴らは星をよむことができる。
星がおれたちの場所を教えているなら、おそらく奴らから追手に情報が流れるのだろう」
「…どうすればいい」
柊羅が、意見を求めている。俺に、求めている。
「小屋に戻れば奴らはいるだろう。
あえて捕まり、以前よりも強力な薬草で陰陽師たちの目をくらまさせて、再び逃亡。
うまくいけば、おばばも救って逃げられる」
「…ただし柊羅、小屋で出会った瞬間に、おれたちが討たれなければ、だろう」
「討つと、思うか」
「…俺に聞くか?」
「ああ。京の者たちに詳しいのは、おれよりもあんただ」
…討つ…だろうか。
奴らが、俺たちを?
「…わからない」
それが、結論だった。
そうとしか、言いようがない。
「そうか」
予想に反し、柊羅は失望の色を見せなかった。納得したように一つ、頷いただけだ。
「…ただし」
倫慶がそう続けると、柊羅は鋭利な視線を向けてきた。
「…ただし、あくまでも俺の勘だが…命はとられないだろう。
追手の黒幕が誰だか知らんが、おそらくそいつは京に居座ったまま、従える者に俺たちを追わせているだけだ。
だとしたら追手は、黒幕のもとへ、俺たちを連れて帰りたいに違いない」
「生きたまま、か」
「そう、生きたまま」
「…自由を奪われる覚悟は必要だ、ということだな」
「まさしく」
明確な答えに、柊羅は眉根を寄せた。
…このまま逃げ続けるのだろうか。
それとも、敵の懐に飛び込むのか。
この危機慣れした請負人は、何を決意するのか。
「…逃げ場は、ない。陰陽師がおれたちの敵である限り」
それが、柊羅の出した結論だった。
「あんたがどうするかは、あんたが決めてくれ。おれは、進む。…奴らの懐へ」
いいぜ。
俺は、お前さんについていく。
そう言う代わりに、倫慶はゆっくりと、立ち上がった。
早鐘を打つ心臓。
緊張していた。ここ数年なかったほど。
倫慶の勘だと、命まではとられない予定だ。…否、とらせはしない。
今後のことも考えると、怪我は最小限にとどめたい。
目の前には、幾時も前に閉めた小屋の扉が、ある。
「…なんだ、あんた怖いのか」
隣にいる倫慶から、微かな振動が伝わってきた。
「…怖くないわけあるか。
お前さんは免疫があるかもしれないけど、俺にとっちゃ初めてだね、生きるか死ぬかがこんな身近にある状況なんて」
違う。
生きるか死ぬかなんて、毎日直面している現実だ。
生きること、死ぬこと。
いつでも確率半分の賭けに勝って、生き続ける。
賭けに負けたとき、生が終わる。
それだけのことに、気付こうとしなかっただけだ。
ただ、それを教えてやるほど甘くはない。いつか、自分で気付け。
「…行くぞ」
柊羅は、扉を蹴り開けた。
そして己を狙い、空を切る鏃を、目の隅で捉えた。
・・・・つづく・・・・
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